この記事を読む前に:いま、物語のどこにいる?
ここまで、地球の誕生から生命、人類の長い旅、そして私たちの祖先が日本列島にたどり着き、石を打ち欠いた道具で暮らした時代までを見てきました。この虹は、地球の誕生から〈現在〉までの道のり全体。いま私たちが立っているのは、章「古代文明」の1つ目のメモリ――氷河期が終わり、世界のあちこちで人々が”耕す”道へ進みはじめる、まさにそのころ。日本列島の縄文の人々だけが、なぜか違う道を選んだ、その大きな分かれ道の物語です。
地球の歴史 → 生命の誕生 → 日本列島の成り立ち → 最初の出アフリカ → 出アフリカ → 日本人の起源 → 旧石器時代 → 新石器時代(いまここ) → 四大文明(近日公開) → 弥生時代(近日公開) → 魏志倭人伝(近日公開) → …
本来この物語の続きは「旧石器時代とは」という、日本列島に人類がたどり着き、打製石器を手に獲物と季節を追って移動を続けた時代の記事から始まりますが、要点だけ先にお伝えすると――群馬県・岩宿遺跡の発見をきっかけに、日本列島にも数万年前から旧石器時代があったことが分かり、人々は打製石器を使い、獲物を追ってあちこちを移動しながら暮らしていました。今回はその続き、氷河期が終わって世界が新しい時代——新石器時代へと移り変わっていく場面です。多くの地域が農耕という大きな選択をする中、日本列島の縄文の人々は、驚くほど独自の道を歩み始めます。
西アジアの「肥沃な三日月地帯」で、人々がすでに小麦や大麦を育て、ヒツジ・ヤギを飼い慣らし始めていました。世界が”耕す”方向へ舵を切り始めていたころの話です。
青森県の小さな遺跡、大平山元I(おおだいやまもとI)遺跡から出土した、指先ほどの土器のかけら。付着していたわずかな炭化物をAMS法(微量の炭素から年代を割り出す分析)にかけると、暦年較正でおよそ1万5500〜1万6500年前という数字が現れました。世界最古級の土器は、四大文明の壮麗な遺跡ではなく、日本列島の名もなき集落に残されていたのです。
この記事を読み終えると、「新石器時代って結局なに?」に自分の言葉で答えられて、しかも世界が”耕す”道を選ぶ中、縄文だけがなぜ”耕さない”道を選んだのかという、この物語でも指折りの謎に、自分の答えを持てるようになります。では始めましょう。
第1章 新石器時代とは?——旧石器との違いを一言で

まず一言でいうと
新石器時代(しんせっきじだい)とは、「打製石器に代わって磨製石器が主役になり、人類が狩猟採集から農耕・牧畜へ、遊動生活から定住生活へと大きく舵を切った時代」のことです。
- いつ?……世界的にはおよそ1万年前、最終氷期が終わって地球が温暖化した時期から。
- 道具……打製石器(打ち欠いて作る)に代わって、磨製石器(研磨して仕上げる、鋭く滑らかな石器)が主役に。
- 暮らし……遊動生活(移動を繰り返す)から、定住生活(集落を作り住み続ける)へ。
| 比較項目 | 旧石器時代 | 新石器時代 |
|---|---|---|
| 主な石器 | 打製石器(打ち欠いて作る) | 磨製石器(研磨して仕上げる)が加わる |
| 生業 | 狩猟・採集 | 狩猟・採集に加え、農耕・牧畜が広がる |
| 暮らし方 | 遊動生活(移動を繰り返す) | 定住生活(集落を作り住み続ける) |
| 土器 | 基本的になし(末期に一部出現) | 本格的に普及し、調理・貯蔵に活用 |
| 社会の変化 | 小規模な集団 | 人口が増え、身分の差や国家の芽が生まれる |
磨製石器と一口にいっても中身は多彩です。木を伐って加工する石斧(せきふ)、穀物をすりつぶす石皿・磨石(すりいし)、矢の先端に取り付ける石鏃(せきぞく)、糸を紡ぐための紡錘車(ぼうすいしゃ)など、農耕・定住生活に合わせて道具の種類そのものが一気に増えていきました。そこに土器という「煮る・蒸す・貯める」を可能にする新しい技術が加わることで、食生活と保存の仕方が根本から変わっていきます。
- 新石器時代=磨製石器・農耕牧畜・定住が主役になる時代。世界的には約1万年前ごろから。
- 旧石器→新石器の目印は「打つ→磨く」「移動→定住」の2つの転換。
- 磨製石器の登場に合わせ、石斧・石皿・石鏃・紡錘車など道具の種類そのものが増えた。
第2章 【つながりの糸】旧石器から引き継いだ2つの伏線——局部磨製石斧と黒曜石交易
まず一言でいうと
「打製=旧石器、磨製=新石器」というきれいな図式には、日本列島ならではの例外と、旧石器から続く交易網の伏線があります。
糸を回収①——世界に先駆けた”早すぎた技術”、局部磨製石斧
前の「旧石器時代とは」の物語で、私たちは一つの謎を持ち帰りました。日本列島では後期旧石器の初め(約3万〜4万年前)に、刃先だけを研磨した局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)と呼ばれる磨製石器が、世界に先駆けてすでに作られていた——という謎です。「世界標準では磨製石器は新石器時代の目印のはずなのに、なぜ日本だけこんなに早かったのか」という予告を、ここで回収します。
答えを先に言うと、この技術と、これから見ていく縄文の磨製石器との間には、技術的なつながりが確認されていません。局部磨製石斧は後期旧石器時代の後半になると忽然と姿を消してしまい、縄文時代の磨製石器は、それとは独立に、あらためて生まれてきたと考えられています。定義というのは常にきれいに割り切れるわけではなく、日本列島は早くも旧石器の段階から、少し独自色を見せていた——けれどその技術は一度、歴史から姿を消した。世界最先端の技術が生まれた場所で、なぜかその技術は一度失われてしまう。これもまた、歴史の面白い”謎”の一つです。
糸を継ぐ——黒曜石交易は、縄文でどう育っていったか
同じ「旧石器時代とは」の物語では、伊豆諸島・神津島(こうづしま)の黒曜石が、約3万8000年前にはすでに舟で本州側へ運ばれていたという話をしました。氷期が終わり、新石器時代(縄文時代)に入っても、この「海を越えてモノを運ぶ」という営みは途絶えるどころか、さらに広域化していきます。
長野県の和田峠、北海道の白滝など各地の黒曜石産地から採れた石材が、驚くほど離れた集落まで運ばれていたことが分かっており、新潟県糸魚川周辺で採れるヒスイ(硬玉)も、遠く離れた地域の遺跡から見つかっています。
具体的な産地名・流通範囲・遠隔地間の交易量は遺跡ごとに差があり、個々の数値やルートの詳細には幅があります。ここでは「縄文時代の日本列島が、旧石器時代から続く”モノを運ぶネットワーク”の上にあった」という大きな流れとして押さえてください。
- 局部磨製石斧(旧石器)と縄文の磨製石器は、技術的なつながりが確認されていない。
- 世界最先端の技術が一度生まれ、一度姿を消すという珍しい現象が旧石器末期に起きていた。
- 神津島の黒曜石交易(旧石器)は途絶えず、縄文時代にはさらに広域なネットワークへ育っていった。
第3章 新石器時代はいつからいつまで?——世界と日本のずれ

まず一言でいうと
世界的な新石器時代の開始(約1万年前)に対し、日本列島(縄文時代)はそれよりずっと早く始まり、終わりの時期も議論が続いています。
世界的には、新石器時代はおよそ1万年前、最終氷期が終わって地球が温暖化した時期(地質時代でいう完新世の始まり)に始まったとされています。ただし開始時期は地域によって大きな差があります。
| 地域 | 開始の目安 |
|---|---|
| 西アジア(肥沃な三日月地帯) | 紀元前8500年ごろ(麦類の農耕と定住) |
| 中国・長江中流域 | 紀元前8000年紀ごろ(稲作の痕跡) |
| アメリカ大陸 | 紀元前4000年ごろ(今からおよそ6000年前) |
終わりの時期はさらに幅があります。新石器時代は一般に、青銅(銅と錫の合金)を使い始める「青銅器時代」への移行をもって終わると考えられていますが、これも地域差が大きく、メソポタミアでは紀元前3300年ごろ、中国では紀元前2000年ごろとされる一方、青銅器の段階をほとんど経ずに鉄器の時代へ移った地域もあります。
日本の新石器時代は「縄文時代」にあたる、けれど……
日本はどうでしょうか。時代区分としては、日本の縄文時代が世界史でいう新石器時代におおむね対応します。縄文時代の始まりは、青森県の大平山元I遺跡の土器を基準にすると、今からおよそ1万6000年前(研究により1万5000年前〜1万6500年前ほどの幅)にまでさかのぼり、世界の新石器時代の目安である「約1万年前」よりもずっと早い時期に始まっていたことになります。終わりの時期も、稲作を伴う弥生時代への移行をめぐって、従来の紀元前4世紀ごろとする説から、2003年に国立歴史民俗博物館が発表した紀元前10世紀ごろとする説まで、今も議論が続いています(この移行の詳しい話は、のちの弥生時代の物語でたどります)。
縄文時代を世界標準の新石器時代の定義(磨製石器・土器・農耕牧畜・定住)にそのまま当てはめてよいのかについては、研究者の間でも慎重な意見があります。実際、日本考古学では世界共通の「新石器時代」でなく、独立した時代区分としての「縄文時代」を使うのが一般的です。その理由は、第5章の山場でお話しします。
- 世界の新石器時代の開始は地域差が大きく、およそ1万年前を目安に紀元前8500年〜4000年ごろまで幅がある。
- 日本(縄文時代)の始まりは約1万6000年前と、世界の目安より早い。
- 縄文の終わり(弥生への移行)は紀元前4世紀説と紀元前10世紀説が併存し、今も議論が続く。
第4章 農耕革命——人類最大の転換点

まず一言でいうと
農耕・牧畜の開始(新石器革命)は、地球上の複数の地域でほぼ独立に、しかもほぼ同じ時期に起きた、人類史でも指折りの転換点です。
新石器時代を新石器時代たらしめている最大の出来事が、農耕・牧畜の開始です。この大転換は、20世紀イギリスの考古学者ゴードン・チャイルドが1936年の著書『Man Makes Himself』の中で「新石器革命(Neolithic Revolution)」と名付けたことで広く知られるようになりました。
興味深いのは、この転換が一つの場所から世界へ伝わっていったのではなく、地球上の複数の地域でほとんど独立に、しかもほぼ同じ時期に起きていることです。
- 西アジア(肥沃な三日月地帯):紀元前8500年ごろから、小麦・大麦の栽培とヒツジ・ヤギの家畜化が始まった。
- 中国:黄河流域でアワ・キビなどの雑穀、長江流域で稲の栽培が、紀元前8000年〜6000年ごろにかけて広がった。
- メソアメリカ(中南米):紀元前7000年〜4000年ごろにかけて、トウモロコシ・カボチャ・豆類の栽培化が進んだ(トウモロコシの本格的な栽培化は紀元前4000年ごろとする説が有力で、開始年代には諸説あります)。
互いに交流もなく、情報が伝わったとも考えにくいほど離れたこれらの地域で、なぜほぼ同じ時期に同じような転換が起きたのか。これは人類史でも指折りの謎とされていますが、有力な手がかりの一つが気候です。約1万年前、最終氷期が終わって気候が温暖で安定した「完新世」に入ったことで、栽培に適した野生植物が世界各地で増え、それを人が管理し始めたことが引き金になった、と考えられています。
農耕は、人類にそれまでなかった「余剰」という感覚をもたらしました。狩り集めた分だけその日その日で食べていた暮らしから、蓄えて計画的に使う暮らしへ。この余剰が人口増加を支え、余った時間と労働力が、のちに専門の職人・神官・支配者といった、農作業をしない人々を養う土台になっていきます。文明・都市・国家という、私たちが「歴史」としてイメージするものの多くは、この農耕革命の延長線上に築かれていきました。
- 農耕革命は西アジア・中国・メソアメリカなどでほぼ独立・ほぼ同時期に起きた。
- 「新石器革命」の名付け親は考古学者ゴードン・チャイルド(1936年)。
- 農耕がもたらした「余剰」が人口増加・専門職・文明の土台になった。
第5章 【つながりの糸】縄文は”新石器”なのに、なぜ農耕を選ばなかったのか

まず一言でいうと
世界が農耕へ向かう中、縄文の人々は土器・定住・大規模集落まで手にしながら、あえて農耕を暮らしの主役にしませんでした。
さて、ここが今回いちばんお伝えしたい「つながり」です。世界の多くの地域が農耕という選択に向かっていたのと同じ時期、日本列島の縄文の人々は、驚くべき早さで土器と定住を手にしていました。
青森県の大平山元I遺跡から出土した土器片は、付着していた炭化物の放射性炭素年代測定(AMS法)により、暦年較正でおよそ1万5500年〜1万6500年前のものと推定されています。これは世界的に見ても最古級の土器とされます(中国・江西省の仙人洞洞窟で見つかった土器片は約2万年前とも報告されていますが、年代測定の妥当性を巡っては議論も続いており、いずれにせよ東アジアが土器発祥の最有力候補地域であることは間違いなさそうです)。
定住についても同様です。青森市の三内丸山遺跡では、今からおよそ5900年〜4200年前、縄文時代前期から中期にかけて、住居域・墓域・高床倉庫群が計画的に配置された大規模な集落が、長期間にわたって営まれていました。発掘調査からは、クリの木を管理し半栽培していたとみられる痕跡や、マメ類・エゴマ・ゴボウなど有用植物を利用していた証拠も見つかっており、単なる「その日暮らしの狩猟採集民」というイメージとはずいぶん違う、計画的で豊かな定住社会の姿が浮かび上がってきます。
土器、定住、大規模集落——農耕社会に匹敵するような条件が、世界のどこよりも早くそろっていたようにも見えます。ところが縄文の人々は、この後もずっと、農耕を暮らしの主役にすることはありませんでした。
イネやアワなどを栽培していた痕跡は各地で見つかっているものの、その規模は集落の食料をまかなえるほどの本格的な農業ではなく、あくまで狩猟・採集・漁労を補う小さな栽培にとどまっていたと考えられています。日本考古学の世界で「縄文農耕」の存在をめぐる議論が長く続いてきたのも、この”痕跡はあるが本格的ではない”という絶妙な立ち位置ゆえです。
なぜ、あえて農耕しなかったのか
理由として有力視されているのが、「必要がなかった」という、拍子抜けするほどシンプルな答えです。当時の日本列島は、氷期が終わって温暖化が進んだことで、豊かな照葉樹林・落葉広葉樹林が広がり、周囲を海に囲まれた地形もあいまって、森の幸・海の幸に恵まれていました。春は山菜、夏は漁労、秋は木の実、冬は狩猟——季節ごとに旬の食料を組み合わせて利用する、いわゆる「縄文カレンダー」と呼ばれる暮らし方だけで、十分に豊かで安定した生活が成り立っていたのです。
一方、農耕は決して”手軽な選択肢”ではありませんでした。土地を切り開き、種をまき、半年近くかけて実りを待ち、しかもその収穫量は天候次第——狩猟採集に比べてむしろ手間とリスクが大きい営みでもあります。加えて一つの作物に依存すると栄養が偏りやすいのに対し、狩猟採集は多様な食料源から旬の栄養をバランスよく摂れるという利点もありました。
つまり縄文の人々は、農耕という技術を知らなかったから狩猟採集を続けたのではなく、豊かな自然という”すでに十分な選択肢”を持っていたからこそ、あえて農耕という新しい賭けに出る必要がなかった、と考えるのが今の有力な見方です。世界の多くの地域が「農耕をせざるを得ない環境」だったのに対し、日本列島は「農耕をしなくても済む環境」だった——豊かさが、変わらない自由をくれた、と言い換えることもできそうです。
これは世界史的にもかなり珍しい現象です。土器を使い、定住し、大規模な集落まで営みながら、食料生産経済(農耕・牧畜が生業の主役になった経済のあり方)へは本格的に移行しなかった社会は、世界的に見ても数少ない事例とされています。だからこそ日本考古学では、世界標準の「新石器時代」という枠組みをそのまま当てはめず、独自に「縄文時代」という時代区分を用いているのです。
「あえて農耕しなかった縄文」は、しかしずっとこのままではありません。この物語はやがて、稲作が本格的に受け入れられ「弥生時代」が始まったとき、縄文がこの1万年以上守り続けた選択を、一転して手放す場面へとつながっていきます。「なぜ変えなかったか」と「なぜ結局変えたか」——この対比は、いったん世界の反対側で興っていた文明に目を向けたのち、弥生時代の物語でいよいよ回収します。
- 縄文は世界最古級の土器・大規模定住集落を持ちながら、農耕を生業の主役にしなかった。
- 理由として有力なのは「豊かな自然があり、農耕をしなくても済む環境だった」という説。
- この選択は世界的にも稀な事例で、日本考古学が独自に「縄文時代」の区分を使う理由になっている。
第6章 農耕がもたらした光と影

まず一言でいうと
農耕革命は文明への扉を開いた一方で、感染症や飢饉リスクの増大という”影”も伴っていました。
もっとも、農耕を選んだ側の社会がすべて順風満帆だったわけではありません。公平のために、農耕革命の「光」と「影」の両面にも触れておきます。
光の面は、すでに見てきた通りです。余剰食料が人口増加を支え、定住によって道具・技術の蓄積が進み、専門化した仕事が生まれ、文明・都市・国家という、その後数千年の人類史の骨格ができあがっていきました。
一方で、影の側面を指摘する研究者もいます。人口が密集した定住集落は、結核・天然痘・麻疹(はしか)といった感染症が広がりやすい土壌にもなりました。これらの感染症の多くは、家畜との近い暮らしを通じて人へ伝わったと考えられているものも含まれています。また一部の遺跡の人骨研究からは、農耕移行後の集団で栄養状態や身長に変化が見られたとする報告や、一つの作物に依存したことで飢饉のリスクが増したとする指摘もあります。
『銃・病原菌・鉄』などの著作で知られる生物地理学者ジャレド・ダイアモンドは、1987年の論考「The Worst Mistake in the History of the Human Race(人類史上最大の過ち)」で、農耕の開始をそう呼んで論争を巻き起こしました。これは一つの強い立場からの主張であり、農耕がその後の文明の土台になったこと自体を否定するものではありません。ただ、「進歩」と単純に語られがちな農耕革命にも、当事者たちが負った負荷があったらしい、ということは知っておいて損はなさそうです。
現代は料理の文化がとても豊かになり、いろいろな食材を組み合わせて、より美味しく食べられるようになりました。それ自体はすばらしいことです。ただ、日々からだと向き合っていると、私はよく思うのです——その季節にとれたものを、その季節に食べる。そのシンプルな食べ方こそ、じつはからだにいちばん合っているのではないか、と。旬の野菜や魚は栄養価も高く、いまのからだが必要としているものと、自然に噛み合っているように感じます。春は山菜、夏は海の幸、秋は木の実、冬は獣——季節ごとに移り変わる縄文の食卓は、からだとよく調和した暮らしだったのではないでしょうか。
一方で、食が豊かに多様になった分、栄養が偏りやすくなった面もあるように感じています。農耕が始まり、麦や米が安定してとれるようになったことは、飢えから人々を遠ざけた大きな恵みでした。けれども同時に、特定の食べものに偏りやすくなった側面もあり、現代の私たちの食卓を見つめていると、その延長線上にいるようにも思えます。だからこそ、季節の旬をきちんといただくという縄文の人々の食べ方には、いまの私たちが見習うところがあるように感じています。
どれだけていねいにからだを整えても、その細胞そのものをつくっている源は、日々口にする食べものであり、栄養です。暮らしの土台にある食を見つめ直すことの大切さを、私は現場で何度も実感してきました。
「あえて農耕しなかった」縄文の人々の、今日食べる分は今日いただき、明日の分は明日いただくという姿勢。備えを積み上げるのではなく、その日いちばんの恵みをありがたく受け取る。それはきっと、私たちがいまも口にする「いただきます」という言葉の根っこにも、静かにつながっているのだと思います。
── 山﨑 駿(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師/Doctor of Chiropractic)
※これは臨床家である筆者自身の視点であり、歴史・科学の読み物です。特定の治療や健康法をすすめるものではありません。
こうして光と影を並べてみると、縄文の人々が農耕という選択を急がなかったことは、案外理にかなった判断だったのかもしれません。急いで負荷の大きい農耕に飛びつくよりも、すでに豊かな自然の恵みを、じっくりと使いこなす道を選んだ——それもまた、一つの賢明な生き方だったと言えそうです。
- 農耕革命は文明・都市・国家の土台を築いた「光」の側面を持つ。
- 一方で感染症の拡大や飢饉リスクの増大という「影」も研究者から指摘されている。
- ダイアモンド「人類史上最大の過ち」論は一つの強い立場であり、農耕の意義自体を否定するものではない。
第7章 この先の旅——世界の文明、そして弥生へ
縄文時代は、やがて稲作という新しい技術の本格的な受容とともに、弥生時代へと移り変わっていきます。その大きな転換を見る前に、暮らしの軸足がどう変わっていくのか、先に対比しておきましょう。
| 縄文(新石器) | 弥生 | |
|---|---|---|
| 生業の主役 | 狩猟・採集・漁労(縄文カレンダー) | 水田による稲作 |
| 道具 | 磨製石器・土器 | 稲作の道具+鉄・青銅の金属器 |
| 選択の姿勢 | 豊かな自然の中、農耕を”あえて選ばない” | 稲作という新しい技術を”本格的に受け入れる” |
1万年以上守り続けた「あえて農耕しない」という選択を、縄文はなぜ、どうやって手放したのか。 その転換に入る前に、次の記事ではいったん目線を大きく引いて、ちょうど同じころ世界の各地で興っていた「四大文明」を覗いてみましょう。稲作と金属が押し寄せる弥生時代の物語は、そのあとで見ていきます。
まとめ:豊かさが、変わらない自由をくれた
氷河期が終わり、世界の多くの地域は、余剰と人口増加という光と、感染症や重労働という影の両方を抱えながら、農耕という新しい生業へと舵を切っていきました。それは人類が文明への扉を開く、大きな一歩だったのは間違いありません。けれどもその同じ時代、日本列島の縄文の人々は、世界最古級の土器と、驚くほど計画的な定住集落を手にしながら、あえてその扉を急いで開けようとはしませんでした。豊かな森と海が用意してくれていた選択肢の多さそのものが、彼らに「変わらない自由」を与えていた——そう考えると、縄文時代は単なる”農耕が遅れた時代”ではなく、”急ぐ必要のない豊かさを選び取った時代”として、また違って見えてくるのではないでしょうか。
現代の窓
「持たない暮らし」「ミニマリズム」「サステナブル」——こうした言葉があふれる現在ですが、縄文の人々はすでに1万年以上前、これを地で行っていました。目の前に広がる森と海の恵みだけで十分に豊かだったから、あえて農耕という”もっと増やす”選択に飛びつかなかった——この態度は、大量生産・大量消費に疲れを感じ始めた今の私たちに、「豊かさとは、増やすことではなく、すでにあるものを使いこなすことかもしれない」という、静かな問いを投げかけてくれます。
次回は、縄文が育っていたのとちょうど同じころ、世界の各地でどんな文明が動き出していたのかを見ていきます。「四大文明|実は”日本だけ”の言葉だった」(近日公開)で、いったん目線を世界へ大きく広げます。そしてその先、稲作と金属が日本列島に押し寄せる「弥生時代」で、今回植えた「あえて農耕しなかった縄文」という糸を、いよいよ回収します。
この記事の参考情報源
- Wikipedia日本語版「新石器時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新石器時代
- 世界史の窓(Y-History)「新石器時代」 https://www.y-history.net/appendix/wh0100-35.html
- 世界史の窓(Y-History)「新石器革命/農業革命(農業の開始)」 https://www.y-history.net/appendix/wh0100-38_1.html
- Wikipedia日本語版「縄文時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代
- 世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」公式サイト「大平山元遺跡」 https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/odai-yamamoto
- Wikipedia日本語版「大平山元I遺跡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大平山元I遺跡
- 青森県「三内丸山遺跡とは」(特別史跡 三内丸山遺跡 公式サイト) https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
- Wikipedia日本語版「三内丸山遺跡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/三内丸山遺跡
- Wikipedia日本語版「局部磨製石斧」 https://ja.wikipedia.org/wiki/局部磨製石斧
- 日本経済新聞「中国で世界最古の土器片 2万年前、料理の跡?」(2012年6月29日) https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2803Y_Y2A620C1CR8000/
- Encyclopædia Britannica「V. Gordon Childe」 https://www.britannica.com/biography/V-Gordon-Childe
- Wikipedia英語版「Neolithic Revolution」 https://en.wikipedia.org/wiki/Neolithic_Revolution
- 名古屋大学大学院環境学研究科 門脇誠二研究室「農業起源の考古学」 https://www.num.nagoya-u.ac.jp/outline/staff/kadowaki/laboratory/research/origins_of_agriculture.html
- Wikipedia日本語版「ジャレド・ダイアモンド」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャレド・ダイアモンド
- 「縄文記号の世界」(縄文農耕・栽培植物に関する専門ブログ)「縄文時代は栽培か農耕か」 https://www.joumon.jp/cultivation-or-agriculture/
※年代・比率・学説は研究によって幅があり、現在も更新が続く分野です。「約」「およそ」を付した数字は目安としてお読みください。特に縄文時代の終期(弥生時代への移行時期)や農耕の始まった正確な年代・地域差については研究者間で議論が続いており、本記事は現時点での主要な見方を紹介したものです。黒曜石・ヒスイの広域交易網(和田峠・白滝・糸魚川等の具体的産地)に関する記述も、複数史料による一次照合を経ています。

コメント