最初の出アフリカ|猿人・原人・旧人・新人の順番

最初の出アフリカ アイキャッチ

アフリカを最初に飛び出したのは、私たちホモ・サピエンスではなかった。”最初の旅人”は、まだ言葉も持たなかった原人だった。

読み進めるほど、誰かに話したくなる”へぇ”が待っている。――猿人・原人・旧人・新人は、何がどう違うのか。人類はなぜ、一度ではなく何度もアフリカを出たのか。そして、いまあなたのDNAに眠る”旧人との出会い”とは。ジョージアで見つかった一片の骨から、もう一つの人類の旅をたどっていく。

目次

今、物語のどこにいる?

物語のいま・現在地人類の誕生の章・1つ目
〈現在〉へつづく ▶
今ここ
虹の物語を進むHistoryOSロボット
地球と生命
人類の誕生
古代文明
古代帝国
中世
近世
近代
二つの大戦
戦後
現代
◄ 46億年前・すべての始まり〈現在〉まで、まだ道は続く ►

前回まで、地球の誕生から生命、そして日本列島という”舞台”が整うまでを見てきました。この虹は、地球の誕生から〈現在〉までの道のり全体。いま私たちが立っているのは、章「人類の誕生」の1つ目のメモリ――整った舞台の上に、ついに”人”の祖先が現れる場面です。

前の記事までで、私たちは地球の誕生から、生命の誕生、そして日本列島という大地そのものができるまでを見てきました。舞台はすでに整っています。次はいよいよ、人が主役になる番です。この歴史の物語ぜんぶを見渡せる地図は、物語の入口ページにあります。

ただし、少しだけお断りしておきたいことがあります。ここから始まるのは、あなたや私につながる「ホモ・サピエンス」――生物としての正式な名前は後ほど説明します――の物語ではありません。サピエンスより先に、アフリカを飛び出していった人たちがいたのです。この記事は、その”最初の旅人たち”の物語です。私たちサピエンスの旅は、次の記事で改めてたどります。

【物語の道すじ】
地球の歴史(46億年) → 生命の誕生 → 日本列島の成り立ち → 最初の出アフリカ(いまここ) → 出アフリカ(サピエンス編) → 日本人の起源 → …

同じころ、世界では

今回は、いつもとは少し違う読み方をしてほしい記事です。この時代、日本列島にはまだ誰もいません。それどころか、日本という大地そのものが、大陸から切り離された直後です。

だから今回は「日本と世界」を並べることができません。代わりに、「世界のあちこちの地域」を並べて読んでください。ジョージアの山あいに、インドネシアの島に、中国の洞窟に、ヨーロッパの谷に――同じ時期、あるいは少しずつ時代をずらしながら、原人や旧人と呼ばれる人たちが、それぞれの土地で暮らしていました。日本列島にまだ誰もいない間に、世界はすでにこんなに賑やかだったのです。

主役シーン

1991年、ジョージア(旧グルジア)の小さな町ドマニシで、考古学者たちが中世の遺跡を調べていました。ところがその地下から出てきたのは、中世どころではない、はるかに古い人骨でした。調べてみると、なんと約180万年前のもの。アフリカ大陸の外で見つかった人類化石としては、当時最古級の発見でした。

それまで「人類がアフリカを出たのは、せいぜい100万年前ごろ」というのが定説でした。ところがドマニシの発見は、その定説を根底からくつがえしました。人類は、思っていたよりずっと早く、しかもずっと”未完成”な姿のまま、アフリカの外へ旅立っていたのです。

この記事を読み終えると、「猿人・原人・旧人・新人はどう違うのか」「出アフリカはなぜ何回もあったのか」「ネアンデルタール人やデニソワ人はどこから来たのか」を、自分の言葉で説明できるようになります。それでは始めましょう。

第1章 出アフリカは、一度じゃなかった——最初に旅立ったのは誰か

猿人・原人・旧人・新人の家系図
猿人→原人→旧人→新人。アフリカを初めて出たのは「原人」からでした。

まず一言でいうと

出アフリカという出来事は、実は一度きりではありませんでした。そして、その最初の一歩を踏み出したのは、私たちホモ・サピエンスではなく、もっと前の時代に生きていた「原人」と呼ばれる人たちでした。

猿人・原人・旧人・新人——四段階で見る人類の家系図

本題に入る前に、この記事に登場する言葉を整理しておきましょう。日本の学校の教科書などでは、人類の進化をよく次の4段階で説明します。

段階 代表的な仲間 暮らした場所・時期の目安 この記事での扱い
猿人 アウストラロピテクスなど アフリカ大陸のみ・数百万年前〜 出アフリカ以前。アフリカ大陸から出ていない
原人 ホモ・エレクトスなど アフリカ→世界各地・約180万年前〜 この記事の主役① 最初にアフリカを出た人たち
旧人 ネアンデルタール人・デニソワ人など ヨーロッパ・アジア各地・数十万年前〜 この記事の主役② 原人の子孫が枝分かれした人たち
新人 ホモ・サピエンス(私たち) 世界各地・約20万〜30万年前〜 次の記事の主役。この記事にはまだ登場しない

つまり、猿人はまだアフリカから一歩も出ていません。原人になって初めて、人類はアフリカの外へ踏み出しました。そして原人の子孫がヨーロッパやアジアの環境に合わせて枝分かれしたのが旧人です。新人(サピエンス)が登場するのは、そのずっとあとの話になります。

正確に言うと——この4段階の呼び方について

「猿人・原人・旧人・新人」という呼び方は、日本で古くから使われてきた分かりやすい整理の仕方です。ただし現在の人類学の研究では、こうした4段階のラベルよりも、「アウストラロピテクス」「ホモ・エレクトス」「ホモ・ネアンデルターレンシス」というように、それぞれの学名で個別に呼ぶのが一般的になっています。本記事では読者に伝わりやすいよう、あえてこの伝統的な4段階の呼び方を軸に説明していきます。

ドマニシ遺跡が変えた”出アフリカ”の常識

冒頭で紹介したジョージアのドマニシ遺跡は、1991年からおよそ2005年ごろまでの発掘調査で、複数の頭骨や顎の骨が見つかったことで知られています。その年代は約180万年前。当時のホモ・エレクトス、つまり原人の仲間の化石でした。

この発見が驚きだったのは、単に「古い化石が見つかった」からではありません。ホモ・エレクトスという種類の人類そのものが誕生したのが約190万年前ごろと考えられているため、ドマニシの人たちは、自分たちの種が生まれてから、それほど時間がたたないうちに、もうアフリカの外に出ていたことになるのです。人類は、体つきや道具がまだ十分に発達しきる前から、すでに旅を始めていたことになります。

正直にお伝えすると——出アフリカは「何回」あったのか

「出アフリカは2回あった」「いや3回だ」という言い方を耳にすることがあります。これは、原人による最初の旅、旧人が枝分かれしていく過程での移動、そして次の記事で扱うサピエンスによる旅、というように、人類がアフリカを出た出来事が一度ではなく複数回起きているためです。ただし、その「回数」の数え方や区切り方は研究者によって幅があり、学界で完全に一致した決まった答えがあるわけではありません。本記事では「複数回あった」という大枠を誠実に押さえ、細かな回数論争には深入りしないことにします。

では、まだ言葉も文字も持たなかったはずの原人たちは、いったいどうやってアフリカの外まで歩いていけたのでしょうか。次の章で見ていきます。

この章でわかったこと
  1. 人類は「猿人(アフリカのみ)→原人(出アフリカ)→旧人(各地で枝分かれ)→新人(サピエンス)」という順番で広がった。
  2. 出アフリカという出来事は一度きりではなく、最初に旅立ったのはサピエンスより約150万〜160万年前の原人(ホモ・エレクトス)だった。
  3. ジョージア・ドマニシ遺跡(約180万年前)は、原人が誕生後ほどなくアフリカを出ていたことを示す発見である。

第2章 なぜ”歩いて”出られたのか——道具と体が開いた最初の扉

まず一言でいうと

まだ言葉も文字も持たなかったはずの原人が、なぜアフリカの外まで歩いていけたのか。その答えは、道具の進化と、長い距離を歩くのに向いた体そのものの変化にあります。

石を打ち欠いて作る、より使いやすい道具

原人の時代、人類はすでに石を打ち欠いて道具を作っていました。その中でも、より進化した石器のスタイルが「アシューリアン石器」(打製石器=石を打ち欠いて作る道具の一種で、涙のしずくのような形をした握斧(にぎりおの)が代表的です)と呼ばれるものです。それ以前の単純な石器と比べて、刃の部分がより鋭く、より計画的な形に整えられており、動物の解体や木の加工など、幅広い作業に使えたと考えられています。

道具が進化したことで、原人は狩りや採集の効率を上げ、慣れない土地でも食料を確保しやすくなっていったと考えられます。使い慣れた道具の作り方さえ体で覚えていれば、材料になる石さえ見つかれば、どんな土地でも同じように暮らしを組み立てられる――これは、見知らぬ土地へ移動する上で、大きな武器になったはずです。

長く歩くのに向いた体

道具だけでなく、体そのものの変化も大きな役割を果たしました。原人は、それ以前の猿人と比べて、二本の足で歩く動作がより効率的になっていたと考えられています。脚が長くなり、体全体のバランスも、短い距離を移動するだけでなく、長い距離をコツコツと歩き続けるのに向いた作りになっていきました。

ここは誤解されやすいので正確に——火の利用について

「火を使えるようになったから旅立てた」という説明を目にすることもありますが、原人がいつから火を自在に扱えるようになったのかは、実は研究者の間でも意見が分かれています。確実な証拠が見つかっている火の利用の痕跡は、ドマニシの人たちが旅立った時期よりも、かなりあとの時代のものが中心です。本記事では、火の利用を出アフリカの直接の原因として断定はせず、「道具と体の変化」を中心とした説明にとどめます。

道具という”外の道具”と、体という”内なる道具”。この二つが少しずつ育っていったことで、原人は気づけば、アフリカ大陸の外まで足を伸ばせるようになっていました。では、旅立った原人たちは、その後どこまで、どんな姿で広がっていったのでしょうか。

この章でわかったこと
  1. アシューリアン石器という、より使いやすい打製石器の登場が、原人の暮らしの幅を広げた。
  2. 長い距離を歩くのに適した体つきへの変化も、移動を後押しした。
  3. 火の利用開始の時期は研究者の間でも意見が分かれており、出アフリカの直接の原因と断定はできない。

🩺 からだに触れる者として

猿人が立ち上がって二本の足で歩き始めたとき、私たちの体は大きな“設計変更”を受けました。背骨はゆるいS字にカーブし、骨盤はお椀のような形に変わって内臓を下から支えるようになります。おかげで両手が自由になり、道具づくりと脳の発達への道が開けました。

いっぽうで、代償もありました。二足で立つ体は、常に重力に逆らい続けています。背骨に触れる仕事を続けていると、一つひとつの関節の動きを確かめるだけで、その“重力とのせめぎ合い”が手に取るように分かります。とりわけ負担が集中するのは、S字カーブの継ぎ目——首と胸の境目、胸と腰の境目、腰と骨盤の境目。この「移行部」は力学的に弱く、年月を重ねた体では圧迫骨折もここに多く見られます。

しなやかによく動く動物の体に比べ、立って暮らす私たちの動きは単調になりがちです。腰痛や肩こりが現代人につきまとうのも、はるか昔に“立ち上がる”ことを選んだ、その長い代償の続きなのかもしれません。これは健康法の話ではない。何百万年もかけて体に刻まれた、歴史の物語です。

── 山﨑 駿(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師/Doctor of Chiropractic)

第3章 アジアへ広がった原人たち——ジャワ・北京、そして”島の小さな人類”

まず一言でいうと

アジアへ渡った原人たちは、それぞれの土地で独自の姿を残しました。インドネシアの「ジャワ原人」、中国の「北京原人」、そしてインドネシアの離島で見つかった、驚くほど小さな体の”島の人類”です。

ジャワ原人——1891年、川辺で見つかった頭の骨

インドネシア・ジャワ島のトリニールという場所で、1891年、オランダの解剖学者ウジェーヌ・デュボワが、頭の骨の一部と、ほぼ完全な形の太ももの骨を発見しました。これが「ジャワ原人」です。デュボワは当時、この化石に「直立して歩く猿人」を意味する学名をつけましたが、のちに研究が進み、現在ではホモ・エレクトス(原人)の仲間として位置づけられています。

正確に言うと——ジャワ原人の年代

ジャワ原人の年代は、当初は約170万〜180万年前ごろと見積もられていましたが、その後の研究では約130万年前ごろとする、より新しい見方も示されています。地層の年代測定の方法や場所によって数字に幅があり、今も研究が続いている論点です。

北京原人——洞窟の奥に眠っていた暮らしの跡

中国・北京郊外の周口店(しゅうこうてん)という洞窟遺跡では、1920年代から本格的な発掘が進みました。1921年に見つかった歯をきっかけに調査が始まり、1929年には頭骨が発見されています。この調査には、カナダの解剖学者デヴィッドソン・ブラックらが深く関わりました。「北京原人」と呼ばれるこの人たちは、洞窟を利用した暮らしの跡や、たくさんの石器とともに見つかっており、年代はおよそ数十万年前と考えられています。

正直にお伝えすると——年代の幅

北京原人の年代については、研究によって「約70万年前から約20万年前ごろ」というように、かなり幅のある見方が示されています。1つの遺跡が長期間にわたって使われていた可能性もあり、「北京原人=ある1つの時点の人々」ではなく、長い時間をかけて同じ場所で暮らしを重ねた集団だったと考えるのが実態に近そうです。

フローレス原人——島で”小さくなった”人類

もう一つ、興味深い例をご紹介します。インドネシアのフローレス島にあるリアンブア洞窟で、2003年に見つかった人骨です。身長はおよそ1メートルほどしかなく、その小柄な姿から「ホビット」という愛称でも呼ばれています。

研究者たちの分析では、この”島の小さな人類”は、もとをたどればジャワ原人のような、体格の大きな原人の子孫だと考えられています。周囲を海に囲まれた小さな島という限られた環境で暮らし続けるうちに、世代を重ねて体が小さくなっていった――これは「島嶼(とうしょ)矮小化」と呼ばれる現象で、大陸から離れた島に閉じ込められた生き物によく見られる進化の一パターンです。

正直にお伝えすると——フローレス原人の年代

フローレス原人が実際に暮らしていた年代についても、研究の進展によって見方が更新されてきた経緯があります。詳しい年代・絶滅の時期は、この記事だけでは扱いきれない奥行きのあるテーマのため、ここでは「ジャワ原人の系統から、島という環境で独自に小型化していった人類がいた」という大枠を押さえるにとどめます。

同じ原人という一つの出発点から、ジャワ・北京・フローレスと、まるで違う土地で、まるで違う暮らしが生まれていった。これがアジアに渡った原人たちの物語です。では、もう一方――ヨーロッパへ向かった原人たちは、その後どうなったのでしょうか。

この章でわかったこと
  1. ジャワ原人(1891年デュボワ発見)は、原人が東南アジアまで到達していたことを示す代表例である。
  2. 北京原人(周口店・1920年代の発掘)は、洞窟を使った暮らしの跡とともに見つかった。
  3. フローレス原人は、ジャワ原人の系統が島という環境で小型化した”島嶼矮小化”の例と考えられている。

第4章 ヨーロッパへ渡った系統は、なぜ”分かれ道”になったのか——共通の祖先ハイデルベルク人

ハイデルベルク人からネアンデルタール人・デニソワ人・サピエンスへの枝分かれ
一つの祖先(ハイデルベルク人)から、氷河期の壁を境に、ネアンデルタール人(欧)・デニソワ人(アジア)・サピエンス(次回)へ枝分かれしていきました。

まず一言でいうと

ヨーロッパ方面へ渡った原人の子孫からは、「ハイデルベルク人」と呼ばれる人類が現れました。この人たちが、のちにネアンデルタール人・デニソワ人・そして私たちホモ・サピエンスへとつながる、共通の祖先にあたると考えられています。

マウアー村の顎の骨

1907年、ドイツのハイデルベルク近郊、マウアー村の砂の採掘場で、作業員がある下顎の骨を掘り当てました。これが「ハイデルベルク人」という名前のもとになった化石です。翌1908年、ドイツの研究者オットー・シェッテンザックによって新しい種類の人類として発表されました。

正確に言うと——ハイデルベルク人の年代

マウアー村で見つかった顎の骨の年代は、当初は約50万年前ごろとされていましたが、その後の測定技術の進歩により、約60万年前という、より古い年代を示す研究もあります。ハイデルベルク人という種類全体で見ると、およそ70万〜60万年前ごろに現れたとする見方が一般的です。年代の幅は、測定方法や個々の化石によって生じています。

「共通の祖先」という位置づけ

ハイデルベルク人が特別なのは、単に「もう一つの古い人類」というだけでなく、その後の枝分かれの”起点”に位置づけられている点です。ヨーロッパに残った集団はやがてネアンデルタール人へ、東のアジア方面に広がった集団はデニソワ人へ、そしてアフリカに残った集団の一部はのちにホモ・サピエンスへとつながっていった――このように考えられています。

つまりハイデルベルク人は、ネアンデルタール人・デニソワ人・サピエンスという、この先の物語に登場する3つの人類すべての”親戚のおおもと”にあたる存在なのです。

ここは誤解されやすいので正確に——分岐の年代

ハイデルベルク人の系統から、ネアンデルタール人・デニソワ人・サピエンスの祖先が分かれていった正確な年代については、研究によって数字に幅があります(およそ76万5000年前から55万年前ごろまでの間、といった具合です)。「いつ、どこで、どのようにきれいに分かれたか」を1本の年代で断定できるほど、単純な話ではない、という点は誠実に押さえておきたいところです。

一つの祖先から始まった旅が、やがて複数の道に分かれていく――次の章では、その分かれ道がなぜ生まれたのかを見ていきます。

この章でわかったこと
  1. ハイデルベルク人は1907年、ドイツ・マウアー村で見つかった顎の骨をきっかけに知られるようになった。
  2. 年代はおよそ70万〜60万年前ごろとされる。
  3. ハイデルベルク人は、ネアンデルタール人・デニソワ人・ホモ・サピエンスの共通の祖先と位置づけられている。

第5章 なぜ欧はネアンデルタール、亜はデニソワに分かれたのか——氷が引いた境界線

まず一言でいうと

同じハイデルベルク人という祖先から始まったのに、なぜヨーロッパとアジアで別々の人類に分かれていったのか。その答えの大きな一つは、氷河期という気候そのものが作った”地理の壁”にあります。

氷が作った、見えない境界線

地球はこれまで、寒い時期(氷期)と暖かい時期(間氷期)を、数万年から十万年ほどの周期で繰り返してきました。氷期になると、ヨーロッパ大陸の広い範囲やアジア内陸部の一部が、分厚い氷や、人が行き来しにくい厳しい環境に覆われます。

このような環境の変化は、そこに暮らす人類の集団を、知らず知らずのうちに分け隔てていったと考えられます。ヨーロッパに残った集団は、ヨーロッパの中で世代を重ね、独自の特徴を強めていきました。これがネアンデルタール人です。一方、アジア方面に広がった集団は、また別の環境の中で世代を重ね、独自の道を歩みました。これがデニソワ人です。同じ祖先から分かれたはずの二つの集団が、間にある広大な距離と、行き来を難しくする気候によって、それぞれ違う人類へと育っていったのです。

発見の物語も、正反対だった

興味深いことに、この二つの人類の”発見のされ方”も、まるで対照的です。

ネアンデルタール人が発見されたのは1856年。ドイツのネアンデル谷にあるフェルトホッファー洞窟で、石灰岩の採掘作業をしていた労働者が、地面の中から人骨を見つけました。全部でおよそ16点の骨が見つかり、当初はさまざまな解釈がなされたものの、のちに新しい種類の人類の化石であることが確認されました。骨や頭の形といった、目に見える”体そのもの”から存在が明らかになった、いわば伝統的な発見のされ方です。

一方のデニソワ人は、それから150年以上あとの2010年、シベリアのデニソワ洞窟で見つかった、ごく小さな指の骨のかけらから存在が明らかになりました。骨そのものの形からではなく、そのかけらに残っていたDNA(遺伝情報を記録した設計図のようなもの)を解読することで、「これはネアンデルタール人ともサピエンスとも違う、まったく新しい人類だ」と判明したのです。全身の骨格はいまだにほとんど見つかっておらず、姿かたちの多くはDNAの記録を通じてのみ知られています。

一方は全身近くの骨から、もう一方はたった一つの指の骨のDNAから。同じ「もう一つの人類」を見つけるにも、時代が変われば、その手がかりはまったく違うものになる――これも、この二つの人類の発見史を並べてみて初めて見えてくる面白さです。

この章でわかったこと
  1. 氷河期の気候変化が、ヨーロッパとアジアの人類集団を地理的に分け隔てた。
  2. ヨーロッパに残った集団がネアンデルタール人に、アジア方面の集団がデニソワ人になっていったと考えられている。
  3. ネアンデルタール人は1856年に骨格から、デニソワ人は2010年に指の骨のDNAから発見された。対照的な発見史を持つ。

第6章 【つながりの糸】なぜ肌の色は薄くなったのか——寒い土地に閉じ込められた体の”自力適応”

まず一言でいうと

寒く、日照の少ない土地に長く暮らし続けた人類の体には、肌の色を薄くする変化が起きていったと考えられています。これは何十万年もの時間をかけて、その土地の環境に体自身が”自力で”合わせていった、進化の物語です。

日照が少ないと、なぜ肌が薄くなるのか

私たちの肌の色を決める大きな要素の一つに、メラニンという色素の量があります。強い日差しの下では、メラニンが多いほど、紫外線による体へのダメージを防ぎやすくなります。ところが、日照の少ない土地では話が変わってきます。

人の体は、日光(紫外線)を浴びることで、骨などの発育に関わるビタミンDという物質を、皮膚の中で作り出すことができます。ところが、メラニンが多く肌の色が濃いままだと、ただでさえ少ない日照から、ビタミンDを作る効率が下がってしまいます。日照の少ない土地で世代を重ねるうちに、メラニンの少ない、薄い肌を持つ人たちの方が、体をうまく維持できて生き延びやすかった――こうして、世代を重ねるごとに、その土地に合った肌の色が広まっていったと考えられています。これは「自然選択」と呼ばれる、生き物の体がその土地の環境に少しずつ合わせていく仕組みの一例です。

体の物語——氷河期のヨーロッパやアジア北部という、日照の少ない土地に長く暮らしたネアンデルタール人やデニソワ人にも、こうした変化が起きていたと考えられています。誰かに教わったわけでも、自分で選んだわけでもありません。何十万年という長い時間をかけて、体そのものが、暮らす土地に合わせて静かに書き換わっていったのです。

ここは研究が続いています——旧人の肌の色の遺伝子について

ネアンデルタール人の肌や髪の色に関わる遺伝子は、現在のヨーロッパの人々が持つ「肌を薄くする遺伝子」とは別の種類のものだった、とする研究もあります。もしこれが正しければ、ネアンデルタール人とサピエンスは、まったく別々の遺伝子の変化によって、たまたま同じような”薄い肌”という結果にたどり着いたことになります。この点は専門的な研究領域のため、本記事では「そういう研究がある」という紹介にとどめ、断定は避けます。

原人・旧人たちは、こうして何十万年もの歳月をかけて、自分たちの体を、暮らす土地に合わせて”自力で”作り替えてきました。この「自力の適応」という考え方を、ここでしっかり覚えておいてください。次の章、そして次回の記事で、もう一度この言葉が出てきます。

この章でわかったこと
  1. 日照の少ない土地では、メラニンの少ない薄い肌の方が、体内でビタミンDを作りやすく生き延びやすかったと考えられている。
  2. この変化は、何十万年もの時間をかけて起きた”自力の適応”である。
  3. ネアンデルタール人・デニソワ人も、寒冷なユーラシアで独自にこの適応を遂げていたと考えられている。

第7章 次の時代へ——遅れてやってきた”新参者”サピエンスが持ち帰ったもの

まず一言でいうと

原人が最初にアフリカを出てから、実に150万〜160万年ほどあとになって、ようやく私たちホモ・サピエンスが同じ旅を始めます。その頃には、ヨーロッパにもアジアにも、すでに”先住の人類”――ネアンデルタール人やデニソワ人――が暮らしていました。

ここまでの旅をふり返ってみましょう。約180万年前、原人がアフリカを出発しました。その一部はアジアへ渡り、ジャワ原人・北京原人・フローレス原人として、それぞれの土地に根を下ろしました。またある一部はヨーロッパ方面へ向かい、ハイデルベルク人という共通の祖先を経て、氷河期という”見えない境界線”によって、ヨーロッパのネアンデルタール人と、アジアのデニソワ人へと枝分かれしていきました。そしてその歳月の中で、彼らの体は、寒く日照の少ない土地に合わせて、肌の色を薄くするなど、自力での適応を積み重ねていったのです。

比較の視点 原人・旧人(この記事の主役) サピエンス(次回の主役)
アフリカを出た時期 約180万年前ごろ 約20万〜30万年前に誕生し、それよりずっとあとに拡散
広がった土地 アジア(ジャワ・北京・フローレス)、ヨーロッパ(ネアンデルタール)、アジア内陸(デニソワ) 世界のほぼ全域
寒冷地への適応の仕方 何十万年もかけての”自力”の適応(肌の色の変化など) 旧人との出会いによる、より短い時間での適応

私たちサピエンスが、氷河期のユーラシアにたどり着いたとき、そこにはすでに、何十万年もかけてその土地に体を合わせてきた”先輩たち”が暮らしていました。遅れてやってきた新参者であるサピエンスは、彼らと出会い、そして交わることになります。一からじっくり時間をかけて自分の体を作り替えるのではなく、すでにそこにいた人たちが積み上げてきた適応を、いわば”譲り受ける”かたちになったのです。この「自力の適応」と「譲り受ける適応」の対比は、次の記事で、より詳しく描いていきます。

この章でわかったこと
  1. 原人が最初にアフリカを出てから、サピエンスが同じ旅を始めるまでには、150万〜160万年ほどの開きがある。
  2. サピエンスがユーラシアに到達したとき、そこにはすでにネアンデルタール人・デニソワ人という”先住の人類”がいた。
  3. 原人・旧人が何十万年もかけて自力で積み上げた適応を、サピエンスは彼らとの出会いを通じて受け継いでいく——この続きは次回。

まとめ:出アフリカは、一枚岩の出来事ではなかった

この記事では、私たちホモ・サピエンスより先に、アフリカを飛び出していった人たちの物語をたどりました。約180万年前、原人がジョージアのドマニシまで到達し、その子孫はジャワ・北京・フローレス島へ、そしてヨーロッパへと広がっていきました。ヨーロッパへ渡った系統は、ハイデルベルク人という共通の祖先を経て、氷河期という気候の壁によって、ネアンデルタール人とデニソワ人という二つの人類に枝分かれしていきました。そして、その長い歳月の中で、彼らの体は暮らす土地に合わせて、肌の色を薄くするといった変化を、自らの力で積み重ねていったのです。

出アフリカとは、一度きりの決まった出来事ではなく、何度も繰り返された旅の連なりでした。この記事で描いた原人・旧人たちの旅は、その一番手にすぎません。私たちサピエンスの旅は、まだ始まってすらいないのです。

現代の窓

現代人のDNAに残るネアンデルタール人・デニソワ人由来のDNA
いま私たちのDNAには、旧人(ネアンデルタール人・デニソワ人)との出会いの記憶が、わずかに残っています。

今、あなたの体の中にあるDNA(遺伝情報の設計図)には、実はこの記事に登場したネアンデルタール人やデニソワ人の記憶が、わずかに刻まれています。非アフリカ系の人々の多くは、ゲノム(遺伝情報の全体)の中に、ネアンデルタール人に由来するDNAをおよそ1〜2パーセントほど受け継いでいるとされ、地域によってはデニソワ人由来のDNAも受け継がれています。詳しい数字と、その”出会い”がどのように起きたのかは、次回の記事で詳しく見ていきます。

つまり私たちは、「純粋なサピエンス」というきれいな一本の系統ではありません。何十万年も前にアフリカを飛び出し、それぞれの土地で独自の体を作り上げていった旧人たちと、どこかで出会い、その記憶を体の中に取り込んだ存在なのです。「自分たちだけで進化してきた」という感覚は、実は少し正確さを欠いています。人類の歴史は、最初から、出会いと交わりの歴史でもあったのです。

筆者の視点

個人的には、人間が「立って歩く」を選んで得たものは、失ったものよりもはるかに大きいと思っています。両手が自由になったことで道具が生まれ、発明が積み重なり、動物にはできない細やかな動きができるようになりました。言葉が生まれ、脳が「考える力」を大きく伸ばした。立って歩くその姿こそが、“人間らしさ”そのものだという気がします。

そして、いちばん面白いと感じるのは、「時間」との付き合い方です。狩りの力なら、動物のほうが優れているのかもしれません。けれど人間は、遺伝子ではなく“言葉や行動”を記憶として受け継ぎ、次の世代へと残していく生き物になりました。動物にも記憶はあるでしょうが、人間はこの「時間の概念」に、とても敏感な気がするのです。過去を覚え、未来を思い描く——その感覚の鋭さこそが、人間を人間たらしめているのではないでしょうか。私たちがこうして“歴史”を持てること自体、はるか昔に立ち上がった、あの一歩から始まっているのかもしれません。

次回への糸

次回は、いよいよ私たちホモ・サピエンス自身の出アフリカを追いかけます。原人が旅立ってから150万〜160万年ほどあとに始まった、私たちの旅は、なぜ「2回あった」と言われるのか。そして、この記事で出会ったネアンデルタール人・デニソワ人と、私たちの祖先は、どこでどう出会ったのか――「出アフリカ(サピエンス編)」で、その続きをたどっていきます。

この記事の参考情報源

  • 日経サイエンス「グルジアの化石が明かす初期人類の旅」
  • ナショナルジオグラフィック日本版(ドマニシ原人・フローレス原人関連記事)
  • 国立科学博物館(フローレス原人・人類進化関連解説)
  • Wikipedia日本語版「ドマニシ」「ジャワ原人」「北京原人」「ホモ・ハイデルベルゲンシス」「ネアンデルタール人」「デニソワ人」「ホモ・フローレシエンシス」(入口として参照。本文の直接の根拠にはしていません)
  • 日経サイエンス「肌の色が多様になったわけ」
  • 世界遺産関連資料(周口店の北京原人遺跡)

※本記事で扱った年代・回数・分類は、いずれも研究の進展によって更新されうる「現時点での見方」です。特に「猿人・原人・旧人・新人」という4段階の呼び方は、日本語での分かりやすさを優先した伝統的な整理であり、現在の人類学では学名による個別の呼称が一般的である点、出アフリカの正確な回数には研究者間で幅がある点、ネアンデルタール人の色素関連の遺伝子研究の詳細については今後さらなる一次情報の照合が望ましい点を、誠実に申し添えます。

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医療系の国家資格を4つ(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)と専門職学位 Doctor of Chiropractic をもち、JCR(日本カイロプラクティック登録機構)の登録カイロプラクターでもある医療従事者・山﨑 駿。オステオパシー(D.O.)を専攻中。十数年にわたり臨床で人の体と向き合い、体・進化・いのちの視点から、人類と地球の歴史をひと続きの物語として読み解く。


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