北里柴三郎とは何をした人か|ノーベル賞を逃した血清療法

破傷風菌(はしょうふうきん)の世界初純粋培養(じゅんすいばいよう)、血清療法(けっせいりょうほう)という治療法の発明、そして香港でのペスト菌発見——北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、19世紀末の医学史に残る大きな成果を、たった十数年のあいだに次々と打ち立てました。それなのに、1901年に創設された第1回ノーベル生理学・医学賞は、共同研究者だったベーリングただ一人の名前で授与されました。香港で発見した菌の学名にも、ほぼ同時期に別の場所から到達したフランス人研究者イェルサンの名が刻まれています。目に見えない病原菌という”敵”と誰よりも早く戦い続けながら、栄光の中心からは二度、一歩外れた場所に立たされた男——それが北里柴三郎です。この記事では、その生涯をたどりながら、「功績と評価は、必ずしも一致しない」というもう一つの物語を読み解いていきます。

いまここ|寄り道です

新しい千円札の顔になった医師は、実は”歴史に一番近づきながら二度も栄光を逃した男”だった——今回はそんな寄り道から始まります。このシリーズ「病と人体の歴史」は、今回で二作目です。前回は、麻酔(ますい)の発明によって”痛みを消す”という夢に挑んだ江戸時代の医師・華岡青洲(はなおかせいしゅう)の物語でした(近日公開)。舞台は江戸から明治へと移り、今回の主役は、目に見えない病原菌という敵と、科学の力で正面から向き合った北里柴三郎です。彼が育てた研究所からは、のちにこのシリーズでたどることになる、感染症をめぐる別の物語の主役たちも巣立っていきます。

この記事を読み終えると、「なぜ、あれほどの功績を残した人物が、歴史の教科書では意外と地味な扱いを受けているのか」という疑問に、自分なりの答えを持てるようになります。それでは、見えない敵と戦い続けた一人の医師の物語を始めましょう。

目次

第1章 見えない敵——19世紀まで人類は”病の原因”を知らなかった

瘴気説の霧の街と、明かされた光る微生物を見つめる案内ロボット

北里柴三郎が生まれたのは1853年、場所は肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)でした。この年、人類はまだ、病気がなぜ起こるのかを正しく説明できていませんでした。当時広く信じられていたのは、瘴気説(しょうきせつ)と呼ばれる考え方です。悪い空気や、じめじめした土地から漂う”よくない気”が病気を引き起こす、という説で、ヨーロッパでも日本でも、長いあいだ医学の常識とされてきました。

もちろん、それでは説明のつかないことがたくさんありました。同じ空気を吸っているはずなのに、病気になる人とならない人がいる。特定の場所に近づいた人だけが決まって熱を出す。そうした”なぜ”に、瘴気説は十分に答えることができませんでした。

この状況が大きく動き始めるのが、北里が少年から青年へと育っていく19世紀後半のことです。目には見えないほど小さな生き物——細菌(さいきん)——こそが病気の正体ではないか、という考え方が、ヨーロッパの研究室から静かに広がり始めていました。

同じころ世界では

北里が熊本で少年時代を過ごしていた同じころ、ヨーロッパではフランスのルイ・パスツールと、ドイツのロベルト・コッホという二人の研究者が、細菌学(さいきんがく)という新しい学問の土台を築きつつありました。パスツールは腐敗や発酵の研究から、コッホは炭疽菌(たんそきん)や結核菌(けっかくきん)の発見から、それぞれ別の道を歩みながら、「病気の多くは、目に見えない微生物によって引き起こされる」という考え方を、科学的な証拠とともに世に示していきます。日本ではまだ瘴気説の名残が根強く残っていたころ、地球の反対側では、病の正体をめぐる大きな転換がすでに始まっていたのです。

この転換の波に、日本から一人の若者が飛び込んでいくことになります。次の章では、その若者がドイツの研究室で何を成し遂げたのかを見ていきます。

この章でわかったこと
  1. 19世紀半ばまで、病気の原因は「瘴気(悪い空気)」によるものだと広く信じられていた。
  2. 1853年に生まれた北里柴三郎が育つ間に、ヨーロッパでは細菌という目に見えない生き物が病気を引き起こすという考え方が広がり始めていた。
  3. この転換を主導していたのが、フランスのパスツールとドイツのコッホという、細菌学の礎を築いた二人の研究者だった。

第2章 コッホ研究室の日本人——破傷風菌、世界初の純粋培養

空気を断ったガラス管で光る単一のコロニーを覗き込む案内ロボット

北里柴三郎は、東京医学校(現在の東京大学医学部の前身にあたる)で医学を学んだのち、内務省(ないむしょう)の衛生局に勤めます。そして1885年、ドイツ留学の機会を得て、ベルリンにあるロベルト・コッホの研究室に入ることになります。

コッホの研究室は当時、世界でもっとも先端の細菌学研究が行われている場所の一つでした。北里はそこで、コッホから直接、細菌をどうやって見つけ、どうやって育て、どうやって「この菌がこの病気の原因だ」と証明するのか、という厳密な手法を叩き込まれます。

そして1889年、北里はここで大きな成果を上げます。破傷風(はしょうふう)という病気の原因となる細菌——破傷風菌——を、世界で初めて純粋培養(じゅんすいばいよう、他の菌を一切混ぜずに、その菌だけを取り出して育てること)することに成功したとされています。

これがなぜ画期的だったのか。破傷風菌には、他の多くの細菌とは違う、厄介な性質がありました。酸素があると生きられない、嫌気性菌(けんきせいきん)と呼ばれる種類の菌だったのです。当時の一般的な培養方法は、空気に触れた状態で菌を育てるのが基本でした。ところが破傷風菌は、その空気そのものが天敵だったのです。北里は、酸素を断った特別な環境で菌を育てる嫌気培養法(けんきばいようほう)という技術を工夫し、この難題を突破しました。

ベルリンの薄暗い研究室。ガラス管の中には、空気を遮断した特別な培地(ばいち、菌を育てるための栄養の土台)が満たされています。北里は何度も何度も条件を変えながら、目に見えないはずの敵を、この小さなガラスの世界の中だけに閉じ込めようとしていました。そしてある日、培地の中に、他の何にも汚されていない、破傷風菌だけの純粋なコロニー(菌の集まり)が育っているのを確認します。世界中の誰も成し遂げたことのない、”敵をたった一種類だけ取り出す”という仕事が、日本から来た一人の留学生の手によって、初めて実現した瞬間でした。

年 できごと
1853年 肥後国(現在の熊本県)に誕生
1885年 ドイツ留学、ロベルト・コッホの研究室へ
1889年 破傷風菌の世界初純粋培養に成功
1890年 ベーリングとともに血清療法の論文を発表
1892年 帰国、伝染病研究所を設立
1894年 香港でペストの原因菌を発見
1901年 第1回ノーベル生理学・医学賞、受賞はベーリング単独
1914年 北里研究所を設立
1917年 慶應義塾大学医学部を創設
1931年 死去

この破傷風菌の純粋培養という技術的な達成が、次の、もっと大きな発見への土台になります。菌そのものを取り出せたことで、北里はその先——菌が体の中で何をしているのか、そしてそれにどう立ち向かうのか——という、まったく新しい問いに向き合うことになるのです。

この章でわかったこと
  1. 北里柴三郎は1885年にドイツへ留学し、ロベルト・コッホの研究室で細菌学の厳密な手法を学んだ。
  2. 1889年、酸素を嫌う破傷風菌を、他の菌を一切混ぜずに育てる「世界初の純粋培養」に成功した。
  3. この技術的な突破が、次の章で見る血清療法という、さらに大きな発想の転換への土台になった。

第3章 血清療法という発想の転換——”毒を制する”から”体の防御力を借りる”へ

体の内から立ちのぼる防御の光と、そっと落とされる血清の一滴を見る案内ロボット

破傷風菌を純粋に取り出せるようになった北里は、次に、もう一つの大きな謎に取り組みます。破傷風菌が引き起こす症状の多くは、菌そのものというより、菌が作り出す毒素(どくそ)によるものだと分かってきていました。では、この毒に対して、体はまったくの無力なのでしょうか。

ここで北里は、コッホの研究室の同僚だったドイツ人研究者、エミール・フォン・ベーリングとともに、ある実験を行います。動物にごく少量の毒素を注射すると、その動物の血液の中に、毒を打ち消す働きを持つ成分が現れることを確認したのです。この成分は抗毒素(こうどくそ)と呼ばれ、今日の言葉でいう抗体(こうたい)の一種にあたります。そして、この抗毒素を含んだ血液の血清(けっせい、血液から固まる成分を取り除いた液体の部分)を、別の、病気にかかった個体に注射すると、症状を和らげたり治療したりできることが分かりました。

これが血清療法(けっせいりょうほう)です。北里とベーリングは1890年、破傷風とジフテリアという二つの病気について、この治療法の基礎となる論文を発表します。それまでの医学は、「毒を持つ菌そのものをどう倒すか」という発想が中心でした。ところが血清療法は違います。体がもともと持っている、毒に対抗する仕組み——のちに免疫(めんえき)と呼ばれることになる働き——を借りて、それを治療そのものに使う、という発想の転換だったのです。この論文は、感染症の治療の歴史における、大きな一歩として今も語り継がれています。

はるか昔、中国の古い医学書『黄帝内経(こうていだいけい)』は、”気”や”陰陽五行”という言葉で体の巡りとバランスを捉えようとしました。一方、北里が向き合っていたのは、目に見えない”細菌”という、物質としての敵と、それに対抗する血液の中の物質でした。同じ「体を守る力」を見つめていても、その捉え方はまったく違う道をたどってきたことになります。

🩺 からだに触れる者として

私は柔道整復師・鍼灸師として、十数年のあいだ臨床で人の体と向き合ってきました。だからこそ、北里が見つめた「免疫」——体が外から来た敵に抵抗する力——には、特別な感慨があります。西洋医学が「免疫」と名づけたこの働きを、東洋では古くから「自然治癒力(しぜんちゆりょく)」と呼んできました。生まれた背景も説明の仕方もまったく違う二つの言葉ですが、”体には自分を守り、回復しようとする力が備わっている”という一点を見つめてきた点では、私にはどこか通じ合って見えます。見ている方向が違っても、人類は昔から同じ体の不思議に手を伸ばし続けてきた——臨床で体に向き合うたび、私はそう感じています。

── 山﨑 駿(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師/Doctor of Chiropractic)

※これは臨床家である筆者自身の視点であり、歴史・科学の読み物です。特定の治療や健康法をすすめるものではありません。

体の防御力を治療に使うという、この画期的な発想を携えて、北里はいよいよ日本への帰国を決意します。しかし、故郷で彼を待っていたのは、栄光とは少し違う現実でした。

この章でわかったこと
  1. 北里とベーリングは、毒素に対抗する血液中の「抗毒素」を発見し、その血清を使って治療する「血清療法」を1890年に発表した。
  2. これは「毒を持つ菌をどう倒すか」から「体が持つ防御力をどう治療に使うか」への、大きな発想の転換だった。
  3. この防御の働きは「免疫」と呼ばれ、東洋の「自然治癒力」という言葉と、表現は違えど”体が自ら回復しようとする力”を見つめようとした点で通じ合う面がある。

第4章 帰国、そして冷遇——福澤諭吉と伝染病研究所

1892年、世界的な成果を引っさげて日本に帰国した北里を待っていたのは、しかし、母校であるはずの東京大学医学部からの冷ややかな対応でした。世界で初めて破傷風菌を純粋培養し、血清療法という新しい治療法を打ち立てた研究者に対して、大学は然るべき地位を用意しませんでした。

正確に言うと

この冷遇の背景には、いくつかの事情が重なっていたとされます。よく指摘されるものの一つが、当時の日本の医学界で議論の的になっていた、脚気(かっけ)という病気をめぐる論争です。原因不明のまま多くの人を苦しめていたこの病気について、当時は細菌が原因だと主張する説もありました。北里は、コッホのもとで培った厳密な細菌学の手法から、この説に慎重な立場をとったとされ、それが東京大学医学部との間に生じた摩擦の一因になった、という見方もあります(諸説あり)。脚気の本当の原因や、この論争がのちに何を引き起こすことになるのかは、このシリーズの別の物語で改めて描きたいと思います。

行き場を失いかけた北里に手を差し伸べたのが、慶應義塾(けいおうぎじゅく)の創設者として知られる福澤諭吉(ふくざわゆきち)でした。福澤は、北里の研究の価値をいち早く見抜き、私財を投じて研究の場を用意します。こうして1892年、私立の伝染病研究所(でんせんびょうけんきゅうじょ)が設立され、北里はここを拠点に研究を続けることになります。

大学という権威ある場所からは外れた場所で、それでも研究を続けられる土台を得たこと。この経験は、のちの北里の生き方に大きな影響を残すことになります。栄誉が約束された場所ではなく、自分の手で新しい場を作り、そこに人と知恵を集めていくという道を、北里はこのときすでに歩み始めていたのです。

そして帰国から2年後、北里はさらに大きな試練——そして、もう一つの”栄光を逃す”出来事——に直面することになります。

この章でわかったこと
  1. 1892年に帰国した北里は、世界的な成果にもかかわらず、東京大学医学部からは冷ややかな対応を受けたとされる。
  2. その背景には、脚気の原因をめぐる当時の論争との摩擦があった、という見方もある(諸説あり)。
  3. 慶應義塾の創設者・福澤諭吉の支援を受け、私立の伝染病研究所を1892年に設立し、研究の拠点を得た。

第5章 香港のペスト——見つけた菌、しかし歴史はイェルサンの名を選んだ

独と仏で学んだ二人が同じペスト菌へ手を伸ばす様子を見上げる案内ロボット

1894年、香港でペスト(黒死病の病原体として知られる感染症)が大流行します。日本政府は、北里を団長とする調査団を現地へ派遣しました。北里は香港に到着してからわずか数日のうちに、患者の体から病原菌とみられる細菌を発見し、これを報告します。

ところが、まさに同じ時期、香港には別の研究者も派遣されていました。スイス生まれでフランスに帰化した細菌学者、アレクサンドル・イェルサンです。イェルサンはパスツール研究所で学んだ研究者で、北里とはほぼ同時期、独立した立場からペストの病原菌を突き止めます。

同じころ世界では

イェルサンが学んだパスツール研究所は、フランスのルイ・パスツールが設立した研究機関で、当時すでに世界各地に支部を広げ、感染症研究の一大拠点になっていました。ベルリンのコッホ研究室で厳密な細菌学を学んだ北里と、パリのパスツール研究所で学んだイェルサン。ヨーロッパの二つの研究の系譜から育った二人の研究者が、地球の反対側にある香港という一つの街で、ほぼ同時にペストの病原菌へとたどり着いた——この偶然のような一致は、19世紀末の細菌学が、世界のどこにいてもほぼ同じ最前線に立てるところまで発展していたことを物語っています。

正確に言うと

のちの検証では、北里が最初に報告した菌の資料について、いくつかの検討が行われてきたとされます。一方でイェルサンが分離した菌は、のちの研究でペストの病原菌そのものであることが確認されたとされます。どちらが”最初”だったのかは、到着からの日数だけでは単純に測れない、当時の状況の複雑さが背景にあるとされ、現在も歴史研究の中でいくつかの見方が併存しています。

最終的に、この菌の学名はイェルサンの名にちなんでYersinia pestis(エルシニア・ペスティス)と定められました。北里が香港到着からわずか数日という早さで菌を突き止めていたにもかかわらず、歴史に刻まれた名前は、もう一人の研究者のものだったのです。これが、この記事の冒頭で触れた、北里が”二度栄光を逃した”うちの一度目にあたります。

けれど、この一件を単純な”敗北”として片づけてしまうのは、少し違うのかもしれません。世界のまったく違う場所で育った二人の研究者が、同じ敵に向かって、ほぼ同時にたどり着いた——この事実そのものが、当時の細菌学という学問がどれほどの速さで世界に広がっていたかを示す、何よりの証拠でもあるからです。

この章でわかったこと
  1. 1894年、香港のペスト流行に際し、北里は現地でわずか数日のうちに病原菌とみられる細菌を発見した。
  2. ほぼ同時期、パスツール研究所で学んだアレクサンドル・イェルサンも独立してペスト菌を発見していた。
  3. 最終的に学名はイェルサンの名にちなんで定められ、北里の名前は菌の名には残らなかった。

第6章 第一回ノーベル賞——なぜ北里の名は呼ばれなかったのか

メダルの隣に空いた台座=呼ばれなかった名前を静かに見つめる案内ロボット

そして1901年、二度目の”栄光を逃す”出来事が起こります。創設されたばかりの第1回ノーベル生理学・医学賞は、血清療法、とりわけジフテリアへの応用を理由に、エミール・フォン・ベーリングただ一人の名前で授与されました。

すでに見てきたとおり、血清療法という治療法そのものは、1890年に北里とベーリングが、ベルリンのコッホの研究室で共に発表した、まぎれもない共同の成果でした。破傷風とジフテリア、二つの病気について、抗毒素という同じ仕組みを土台に、二人はともに論文をまとめています。それにもかかわらず、栄誉ある最初のノーベル賞に、北里の名前が連ねられることはありませんでした。

正確に言うと

なぜ北里が受賞者に含まれなかったのかについては、はっきりとした単一の理由は分かっておらず、諸説あります。授賞理由がジフテリアへの臨床応用に絞られ、その後の実用化にベーリングがより深く関わったからではないか、という見方や、選考委員会側の事情によるものではないか、という見方など、複数の説が今も議論されています。共同研究であったにもかかわらず、最終的な栄誉が一人の名前に集約されてしまう——という構図そのものは、当時の科学の世界では、必ずしも珍しいことではなかったとも指摘されています。

興味深いのは、この出来事の受け止め方です。北里自身がこのことについて激しく異議を唱えた、という記録は目立って残ってはいません。むしろこのあとの北里は、賞という一度きりの栄誉そのものよりも、自分が積み上げてきた知識と技術を、次の世代へどう手渡していくかという方向へ、力を注いでいくことになります。

破傷風菌の純粋培養では技術で世界の先頭に立ち、血清療法では発想の転換で医学の歴史を動かし、香港ではだれよりも早く敵の正体を突き止めた。それでも、学名にもノーベル賞にも、彼の名前は最終的には残りませんでした。次の章では、それでも北里が歴史に残したもの——彼が選んだ、もう一つの道をたどっていきます。

この章でわかったこと
  1. 1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞は、血清療法を理由にベーリング単独で授与された。
  2. 血清療法は北里とベーリングの共同研究だったが、栄誉は一人の名前に集約された。理由については諸説あり、単一の答えは定まっていない。
  3. 北里はこの出来事に強く異議を唱えた記録は目立たず、その後は次世代への継承へと力を注いでいくことになる。

第7章 バトンは渡された——北里研究所・慶應医学部、そして後進たち

年長の研究者が若い後進へ知識の光を手渡す場面に立つ案内ロボット

1914年、北里にとって、もう一つの大きな岐路が訪れます。それまで所属していた伝染病研究所の所管(しょかん、どの役所が管理するかという枠組み)が、北里の意向とは関係のないところで変更されることになったのです。これに反発した北里は、所長の職を辞し、私財を投じて新たに北里研究所(きたさとけんきゅうじょ)を設立します。多くの研究者や弟子たちも、彼とともにこの新しい研究所へと移りました。

さらに1917年、北里はかつて自分を支えてくれた福澤諭吉の慶應義塾に、医学部を新たに創設します。慶應義塾大学医学部の初代医学部長となった北里は、若い医学生たちの育成にも力を注ぎました。かつて自分が福澤から受けた恩を、次の世代への教育という形で返していったのです。

私自身、こうして北里の後半生をたどっていくと、いちばん心を打たれるのは、彼が一度きりの栄誉よりも「次に続く人と、仕組み」を残す道を選んだことです。医学は、一人の天才の発見だけで前に進むわけではありません。先人が積み上げてきた知恵を受け継ぎ、それを次の世代へ手渡していく——その長い連なりの中でこそ、少しずつ大きく育っていくものなのだと思います。目の前の患者や研究と向き合うことも、新しい知識を学び続けることも欠かせません。けれど、いつか学んだものを”伝える側”に回ること。それもまた、医に携わる者に静かに課された、大きな仕事なのではないかと感じます。伝染病研究所を建て、多くの弟子を育て、医学部をつくった北里の後半生は、そのことを何より雄弁に語っているように思えるのです。

北里の研究所からは、多くの後進が育ちました。赤痢(せきり)の原因菌を発見した志賀潔(しがきよし)や、梅毒(ばいどく)の新しい治療薬の開発に携わった秦佐八郎(はたさはちろう)らは、いずれも北里のもとで細菌学を学んだ研究者たちです。さらに、のちにアメリカへ渡り、独自の研究で世界的に名を知られることになる野口英世(のぐちひでよ)も、若き日に北里の研究所に籍を置いた一人でした。彼らが何を発見し、どんな道を歩んだのかは、このシリーズの別の物語で、あらためて描いていきたいと思います。

伏線:北里研究所を巣立った人々

志賀潔・秦佐八郎・野口英世——彼らの物語はまだ始まったばかりです。そしてこの先には、パスツールやコッホが切り拓いた細菌学の系譜、天然痘(てんねんとう)というかつて人類を最も苦しめた病、そして中世ヨーロッパを襲った黒死病(こくしびょう)の記憶など、感染症をめぐるさらに大きな物語が待っています。それらは、また別の記事でたどっていきます。

北里以前 北里以後
破傷風・ジフテリアへの対応 有効な治療の手立てが乏しく、経過を見守るしかない場合が多かったとされる 血清療法(抗毒素の注射)という、治療の選択肢が新たに生まれた
ペストなどの感染症の理解 原因のはっきりしない”祟り”や”瘴気”として恐れられていた 病原菌という原因が特定され、対策を科学的に考える土台ができた
感染症研究の担い手 個人の経験や伝承に頼る部分が大きかった 研究所という”仕組み”の中で、次の世代へと知識が受け継がれるようになった
この章でわかったこと
  1. 1914年、所管の変更に反発した北里は伝染病研究所を辞し、私財を投じて北里研究所を設立した。
  2. 1917年には慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長として後進の育成に力を注いだ。
  3. 志賀潔・秦佐八郎・野口英世ら、北里のもとで学んだ研究者たちが、のちにそれぞれの分野で大きな足跡を残していった。

現代の窓

2024年に発行が始まった新しい千円札には、北里柴三郎の肖像が採用されました。ノーベル賞にも、菌の学名にも、自分の名前を残すことができなかった男が、およそ100年の時を経て、日々多くの人の手に渡るお札の顔として選ばれている——これもまた、功績と評価が必ずしも同じ時間軸で一致するとは限らない、という物語の続きなのかもしれません。

血清療法で使われた抗毒素という考え方は、今日の予防接種(ワクチン)や、抗体そのものを薬として使う抗体医薬(こうたいいやく)という新しい治療法の、源流の一つになっていると言われています。もちろん、当時の血清療法と現代の医療技術はまったく別のものであり、単純に”つながっている=同じ仕組みだ”と言い切れるものではありません。それでも、体に備わった防御の仕組みを味方につけようとした北里たちの発想は、形を変えながら今も生き続けている、と言えそうです。

ここ数年、私たちは新しい感染症の流行を経験し、”免疫”や”抗体”という言葉が、以前よりもずっと身近になったと感じている人も多いのではないでしょうか。目に見えない敵と向き合うために、体そのものの仕組みを理解しようとする営みは、北里の時代から今日まで、姿を変えながらずっと続いているのです。

まとめ

破傷風菌の世界初純粋培養、血清療法という発想の転換、香港でのペスト菌発見——北里柴三郎は、目に見えない敵と誰よりも早く戦い続けた研究者でした。それでも、菌の学名にはイェルサンの名が、そして第1回ノーベル賞にはベーリング一人の名前が刻まれました。二度、栄光の中心から一歩外れた場所に立たされながら、北里は自分の名前を歴史に刻むことよりも、次に続く人と、仕組みを残すことを選びました。伝染病研究所、北里研究所、慶應義塾大学医学部——これらは、彼が育てた”人が育つ場所”そのものです。功績と評価は、必ずしも一致しない。それでも、誰かがその功績を土台にして次へ進むかぎり、歴史は静かに、しかし確実に前へ進んでいくのだと思います。

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この記事の参考情報源

  • 北里柴三郎記念室(北里大学)
  • 慶應義塾大学医学部
  • 日本細菌学会
  • nippon.com
  • J-STAGE
  • 国立国会図書館
  • Wikipedia日本語版(入口として参照。本文の直接の根拠にはしていません)
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この記事を書いた人

医療系の国家資格を4つ(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)と専門職学位 Doctor of Chiropractic をもち、JCR(日本カイロプラクティック登録機構)の登録カイロプラクターでもある医療従事者・山﨑 駿。オステオパシー(D.O.)を専攻中。十数年にわたり臨床で人の体と向き合い、体・進化・いのちの視点から、人類と地球の歴史をひと続きの物語として読み解く。


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