黄帝内経と陰陽五行説|東洋医学2000年の源流をたどる

黄帝内経と陰陽五行説──五行の輪と陰陽、黄帝内経の竹簡、生薬、古代の身体観を見上げる案内ロボット

最初に、はっきりさせておきたいことが一つある。この記事は占いの話ではない。「陰陽五行」と聞くと、生年月日から性格や相性を占う話を思い浮かべる人も多いかもしれない。だがここで語りたいのは、そういう話ではなく、2000年以上前の人たちが「人はなぜ病むのか」という問いにどう答えようとしたかという、歴史の物語だ。

きっかけは、一つの素朴な疑問だった。もともと陰陽五行説は、王朝がなぜ栄え、なぜ滅びるかを説明するための政治の理論だった。国の運命を占うための道具立てが、なぜいつの間にか、一人ひとりの体の中に取り込まれ、鍼灸(しんきゅう)や漢方(かんぽう)といった東洋医学の土台になっていったのか。この「なぜ」を追いかけると、中国の思想史だけでなく、海の向こうのローマ帝国、そしてまだ小さなクニグニがひしめいていた頃の日本列島までが、一本の糸でつながって見えてくる。

いまここ

私たちの歴史の旅は、今ちょうど弥生時代——日本列島に小さなクニグニが生まれ、大陸の大国と行き来を始めた頃——を歩いている。今日はその歩みを先に進める代わりに、海の向こうで同じ頃に育っていた、もう一つの物語をのぞいてみたい。これは旅の”現在地”を動かす章ではなく、隣の部屋を少しだけのぞく寄り道のコラムだ。読み終えても、旅はまた同じ場所から続いていく。

同じころ、世界では

漢という大きな国が陰陽五行説をもとに人の体を語り始めた頃、地中海の向こうのローマ帝国では、医師ガレノスが「四体液説(したいえきせつ)」という別の体の理論を組み立てていた。そして日本列島では、倭(わ)と呼ばれた小さなクニグニが、ようやく大陸の大国に使いを送り始めていた。

時間の実感

黄帝内経(こうていだいけい)がおおよそ今の形にまとまってから、すでに2000年近くが経つ。それでも、鍼灸師になるための国家試験の教科書には、今もこの理論が最初のページ近くに載っている。2000年前に生まれた理論が、形を変えながらも”現役の教科書”であり続けている——これは歴史の中でもかなり珍しいことだ。

主役シーン

舞台は戦国時代の中国。一人の思想家が「なぜ王朝は興り、なぜ滅びるのか」を説明する理論を説いていた。それから数百年後、名前も残らない多くの医家たちの手によって、その同じ理論が「なぜ人は病むのか」を説明する理論へと静かに姿を変えていく。この記事を読み終えるころには、「陰陽五行」や「東洋医学」という言葉を、占いや漢方の枕詞としてではなく、2000年かけて政治の理論から体の理論へ変身していった物語として、自分の言葉で語れるようになっているはずだ。

目次

第1章|黄帝内経とは何か

まず一言でいうと、黄帝内経とは、一人の人間が書き下ろした本ではなく、伝説の帝王「黄帝(こうてい)」と名医たちの問答という形を借りて、何世代にもわたる医家たちの知恵が積み重なってできあがった、体についての”理論書”だ。

黄帝内経は大きく二つの部分に分かれている。一つは『素問(そもん)』。生理(体のしくみ)・病理(なぜ病むか)・養生(どう健康を保つか)という、いわば理論編にあたる。もう一つは『霊枢(れいすう)』。経絡(けいらく・体の中を気(き)が巡ると考えられた道筋)や、鍼(はり)を使った治療の実際について書かれた、実践編にあたる。この理論編と実践編が両輪となって、東洋医学という体系の土台を形づくっていった。

内容は問答形式で書かれている。伝説の帝王・黄帝が、岐伯(きはく)という名医に「なぜ人は年をとると病みやすくなるのか」「季節が変わると体はどう変わるのか」といった問いを投げかけ、岐伯が答えるという形式が繰り返される。この対話形式そのものが、黄帝内経という書物の性格をよく表している。一人の天才が孤独に書き上げた本ではなく、問いと答えを重ねながら育っていった、集合知の書なのだ。

正確に言うと——「黄帝が書いた本」ではない

「黄帝内経」という名前から、伝説の帝王・黄帝が実際に書いた本だと誤解されることがあるが、そうではない。黄帝は中国神話に登場する伝説上の帝王であり、実在の著者ではない。当時の人々が、自分たちの積み重ねてきた医学知識に「黄帝」という権威ある名前を借りて箔をつけた、という理解が一般的だ。

成立年代についても、一つの年に断定することはできない。春秋・戦国時代から続いた医学知識の蓄積を経て、前漢(ぜんかん)の終わりから後漢(ごかん)の初め頃(おおむね紀元前1世紀から紀元後1〜2世紀にかけて)に、現在に近い形へまとまっていったと考えられている。手がかりの一つになるのが、西暦200年前後に医師・張仲景(ちょうちゅうけい)が書いた『傷寒論(しょうかんろん)』の序文だ。ここには「素問」や「九巻(きゅうかん)」(霊枢の別名とされる)という書物の名前がすでに登場しており、この頃には黄帝内経の中身にあたる文献が存在していたことがわかる。これはあくまで間接的な証拠であり、成立の時期には今も研究者の間で幅がある、という点を誠実にお伝えしておきたい。

こうして積み重なった知恵の書は、その後の中国医学、そして東洋医学全体の”憲法”のような存在になっていく。次の章では、この書物の背骨をなす考え方——陰陽五行説そのものが、いったいどこから生まれてきたのかをたどっていきたい。

この章でわかったこと
  1. 黄帝内経は一人の著者の本でなく、伝説の帝王「黄帝」と名医の問答という形を借りた、複数世代の知恵の集合体である。
  2. 理論編『素問』と実践編『霊枢』の二部構成で、東洋医学の土台になった。
  3. 成立年代は諸説あり、前漢末〜後漢初(紀元前1世紀〜紀元後1〜2世紀)頃にまとまったとみられる——次章では、その中身の背骨である陰陽五行説の起源をたどる。

第2章|陰陽五行説の誕生——王朝の理論が、なぜ体に取り込まれたか

陰陽五行説の誕生──思想家が示す五行の輪と、王朝の玉座が人体へ変わる暗示を指さす案内ロボット

まず一言でいうと、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)は、最初から体についての理論ではなかった。それは戦国時代の終わり、斉(せい)の国の思想家・鄒衍(すうえん)が説いた、「王朝はなぜ興り、なぜ滅びるのか」を説明する政治の理論として生まれた。

鄒衍(紀元前305年頃〜紀元前240年頃)は、戦国時代の諸子百家(しょしひゃっか・さまざまな思想家たちの一群)の中でも「陰陽家(いんようか)」と呼ばれる一派を代表する人物だった。彼が説いたのが「五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)」だ。木・火・土・金・水という五つの”徳”(木徳・火徳・土徳・金徳・水徳)が、決まった順番で移り変わっていくことで、王朝も次々と交代していく——という歴史観である。この理論は後に、中国を統一した始皇帝(しこうてい)にも採用されたと伝えられている。秦(しん)は「水徳」の王朝とされ、水にちなむ黒い色や数字の六が、国の制度のあちこちで重んじられたという。

ここで押さえておきたいのは、陰陽説と五行説は、もともと別々の考え方だったという点だ。陰陽説は、万物が「陰」と「陽」という相反する二つの働きの消長(しょうちょう・増えたり減ったりすること)によって動いている、という考え方。五行説は、世界を成り立たせる基本の要素を木・火・土・金・水の五つとし、それぞれが互いに影響を与え合いながら循環している、という考え方だ。この二つは戦国時代の終わり頃に一つに結びつき、続く秦(しん)・漢(かん)の時代に大流行することになる。

ではなぜ、もともと王朝の交代を説明するための理論が、人の体という、まったく別のものにまで取り込まれていったのだろうか。ここに、この記事いちばんの”なぜ”の答えがある。木・火・土・金・水という五つの要素は、季節(春夏秋冬プラス季節の変わり目)・方角(東西南北プラス中央)・色(青赤黄白黒)といった、この世界のあらゆるものを分類できる、いわば万能の物差しだった。そしてこの物差しは、王朝という大きなものにも、人の体という小さなものにも、同じように当てはめることができた。古代の中国では、「体は自然界を小さくしたもの(小宇宙)であり、自然界の法則がそのまま体の中でも繰り返されている」という考え方(天人相応(てんじんそうおう)と呼ばれる)が根づいていた。王朝という”大きな体”を説明していた理論が、人という”小さな体”にも横滑りしていった——そう考えると、この転用は決して偶然ではなく、当時の人々の世界の見方からすれば、むしろ自然な流れだったと考えられている。

正確に言うと——鄒衍だけの発明ではない

陰陽五行説の体系化を代表する人物として鄒衍の名がよく挙げられるが、この思想がすべて彼一人の発明というわけではない。陰陽の考え方は『易経(えききょう)』のような、より古い占いの書物にまでさかのぼる要素を持ち、五行の考え方も『書経(しょきょう)』の「洪範(こうはん)」という篇に、世界を構成する五つの基本要素として木・火・土・金・水が挙げられている記述が見られる。鄒衍は、こうしたばらばらの考え方を一つの大きな体系にまとめあげた、いわば集大成者だった、というのが誠実な理解だ。

木・火・土・金・水という循環の物差しが、王朝の運命から人の体へと横滑りしていく——この流れの先に、次の章で見る「体は五つの臓器の巡りでできている」という考え方が生まれてくる。

この章でわかったこと
  1. 陰陽五行説はもともと、王朝の興亡を説明する政治の理論(五徳終始説)として、戦国時代の思想家・鄒衍によって体系化された。
  2. 陰陽説と五行説はもとは別の考え方で、戦国末に融合し、秦・漢の時代に大流行した。
  3. 木火土金水が季節・方角・色にまで当てはまる”万能の物差し”だったからこそ、王朝だけでなく人の体という”小宇宙”にも自然に転用されていった——次章では、この物差しが具体的にどう体を説明したかを見ていく。

第3章|陰陽五行は人体をどう捉えたか

相生の巡り──水・木・火・土・金がめぐり、中央に体の巡りを映す青い人体、川に触れる案内ロボット

まず一言でいうと、木・火・土・金・水は、肝(かん)・心(しん)・脾(ひ)・肺(はい)・腎(じん)という五つの臓器(五臓(ごぞう))に一つずつ対応づけられ、「体は自然界の縮図であり、自然界の法則がそのまま体の中でも起きている」という身体観が形づくられていった。

この対応づけは、単なる語呂合わせではない。たとえば「肝」は木に、「心」は火に、「脾」は土に、「肺」は金に、「腎」は水に対応する、というように体系立てて割り振られている。この五臓それぞれが、木が燃えて火になり、火の燃えかすが土に還るように、互いに影響を与えながら巡っている——というのが、東洋医学における体の見方の土台になった。

もう一つの柱が「陰陽」だ。体の中を巡る「気(き)」と「血(けつ)」のバランスが取れている状態を良いバランスとし、その均衡が崩れることに不調の原因を求める、という発想がここから生まれた。この気血のバランスをより細かく読み解いていく理論(弁証(べんしょう))や、体の中を巡る道筋そのもの(経絡)については、それだけで一つの大きなテーマになるため、この記事では深入りせず、いつか別の記事でじっくり扱いたいと思っている。

🩺 からだに触れる者として|自然の中で腑に落ちた、五行の巡り

この記事を書いているのは、鍼灸師の国家資格を持つ書き手だ。国家試験の勉強で初めて陰陽五行説と向き合ったとき、正直に言うと、最初はまったくピンとこなかった。木が火を生み、火が土を生み、土が金を生み、金が水を生み、水がまた木を生む——「相生(そうしょう)」と呼ばれるこの巡りの図を見せられても、何を言っているのか分からなかった。それまで、そうした考え方に触れる機会がなかったからだ。

けれど学び続けるうちに、少しずつ腑に落ちてくる瞬間があった。理由をたどると、幼い頃に自然の中でたくさん遊んだ記憶に行き着く。水がよく流れる場所には、よく木が育つ(水生木)。その木を火にくべると、よく燃える(木生火)。燃えた後の灰は、栄養分となって土に還っていく(火生土)。栄養豊かな土のある場所には、鉱物や岩石が生まれる(土生金)。そして、鉱物や岩石のある場所には、澄んだ栄養豊かな水が流れる(金生水)——この一巡りは、幼少期に自然の中で見てきた景色そのものと、驚くほど重なっていた。

この自然の循環を、そのまま五臓に当てはめて体を見てみると、体の中の巡りが一本の線でつながって見えてくる。これは効能や治療の話ではない。あくまで、大昔の人たちが「体を自然の一部として眺める」ことで、体の中の巡りをどう物語として説明しようとしたか、という思想の歴史として、興味深く感じている。

── 山﨑 駿(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師/Doctor of Chiropractic)

※これは健康法や治療の話ではない。昔の人が自分の体をどう捉えようとしてきたか、という思想と歴史の物語として読んでほしい。

正確に言うと——同じ漢字でも指すものが違う

現代の解剖学・生理学で使う「肝臓」「腎臓」といった臓器名と、東洋医学の「肝」「腎」という言葉は、同じ漢字を使っていても、指している範囲がまったく同じではない。現代医学の「肝臓」は特定の臓器そのものを指すのに対し、東洋医学の「肝」は、その臓器の働きに加えて、感情や巡りの状態まで含む、より広い”機能のまとまり”を指す考え方だ。この違いを知らずに読むと誤解が生まれやすいので、ここで正確にお伝えしておきたい。

体を自然の一部として眺めるこの考え方は、実は中国だけのものではなかった。次の章では、目を海の向こうに転じ、まったく違う場所で、まったく違う人たちが、同じ「なぜ人は病むのか」という問いにどう答えていたのかを見ていきたい。

この章でわかったこと
  1. 木火土金水は肝・心・脾・肺・腎という五臓に対応づけられ、「体は自然界の縮図」という身体観が形づくられた。
  2. 気血のバランスという発想が、東洋医学の「陰陽」の考え方の土台になった。
  3. 現代医学の臓器名と東洋医学の「肝」「腎」等は同じ漢字でも指す範囲が異なる——次章では、同じ頃の海の向こうで生まれた、別の体の理論を見ていく。

第4章|同じころ、世界では——ガレノスとローマ、そして弥生の日本

同じころ世界では──左に陰陽五行の輪、右にガレノスの四体液のガラス瓶、東西を見比べる案内ロボット

まず一言でいうと、黄帝内経が今の形に近づいていった後漢(ごかん)の時代(1〜2世紀)、ユーラシア大陸の反対側にあるローマ帝国では、医師ガレノス(129年頃〜199年頃、没年は216年頃とする説もある)が、ヒポクラテス以来の医学の知恵を体系化し、「四体液説(したいえきせつ)」としてまとめていた。

四体液説とは、人の体には血液・粘液(ねんえき)・黄胆汁(おうたんじゅう)・黒胆汁(こくたんじゅう)という四つの体液が流れており、この四つのバランスが取れていれば健康で、崩れると病気になる、という考え方だ。ガレノスはこの理論を、動物の解剖から得た観察も交えながら、非常に緻密な体系に仕上げた。この理論は、その後の西洋の医学において、実に19世紀の科学的な病理学が登場するまで、長きにわたって医学の”常識”であり続けることになる。

ここで見えてくるのが、この記事いちばんの”つながりの糸”だ。交流のなかった中国とローマが、ほぼ同じ時代に、それぞれまったく独立に、「なぜ人は病むのか」という同じ問いに対して、違う答えを出していた。中国では木火土金水という五つの要素の巡りとして、ローマでは血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁という四つの体液のバランスとして——舞台も言葉も違うのに、「体の中の何かのバランスが崩れると病気になる」という発想の骨組みは、どこか似た形をしている。もちろん、これは「人類は必ず同じ答えにたどり着く」という法則ではない。ただ、遠く離れた土地の人々が、体という同じ謎に向き合ったとき、似た形の答えにたどり着くこともある——そのことが、歴史のおもしろさの一つを教えてくれる。

そして、このとき日本列島はどうだったのか。ちょうど弥生時代にあたるこの頃、日本列島にはまだ「国」と呼べるような統一された政治のまとまりはなく、小さなクニグニが各地に点在していた。西暦57年、そのうちの一つ、倭(わ)の奴国(なこく)の王が、後漢の皇帝から「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を授かったと伝えられている。さらに時代が下った239年には、女王・卑弥呼(ひみこ)が、当時中国大陸で争っていた三国(魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく))のうちの魏に使者を送ったという記録が残っている。中国という巨大な思想の体系がすでに固まりつつあった同じ頃、日本列島はようやく文字も国のまとまりも芽生え始めたばかりだった——この規模の対比もまた、同じ時代の中に確かに存在していた景色の一つだ。

正確に言うと——「交流の結果」ではない

黄帝内経の陰陽五行説と、ガレノスの四体液説は、互いに影響を与え合って生まれたわけではない。当時の中国とローマの間に、こうした医学理論が直接伝わり合ったことを示す記録は見当たらず、両者はそれぞれ独立に生まれたと考えられている。「同じ時代に似た発想が生まれた」ことと、「一方が他方から影響を受けた」ことはまったく別の話であり、この二つを混同しないよう気をつけたい。

この糸、また別の場所で

ちなみに、なぜ形の違う理論が生まれたのかについては、「根底にある問いは同じだが、それぞれの土地の生活習慣や気候、四季の巡り方といった”背景”の違いが、答えの形を分けたのではないか」という見方もできる。ローマの暮らしと、中国の暮らしと、それぞれの四季——この”背景”の違いを掘り下げていくと、また新しい物語が見えてきそうだ。この続きは、いつかまた別の記事で追いかけてみたい。

この章でわかったこと
  1. 黄帝内経とほぼ同じ時代、ローマではガレノスが「四体液説」という別の体の理論を体系化していた。
  2. 交流のなかった中国とローマが、独立に「体のバランスが崩れると病む」という似た発想の理論にたどり着いた。
  3. 同じ頃、日本列島は57年の金印・239年の卑弥呼の遣使に見られるように、まだクニグニの段階だった——次章では、この二つの理論のその後の分かれ道を見ていく。

第5章|東洋医学とは何か——西洋医学との分かれ道

まず一言でいうと、「東洋医学」という言葉そのものは、黄帝内経の時代の中国の人々が自分たちの医学を呼んでいた名前ではない。西洋の医学がやってきた後の近代の日本で、それと区別するために作られた、比較的新しい呼び名だ。

黄帝内経を土台にした中国の医学(後の東洋医学)と、ガレノスの四体液説を土台にした医学(後の西洋医学の源流)は、出発点で見ると、実はとてもよく似ていた。どちらも「体は一つのまとまったバランスであり、そのバランスが崩れることで病気になる」という考え方から出発している。分かれ道が訪れるのは、もっと先——ヨーロッパで人体そのものを直接、正確に観察しようとする解剖学と、実験によって仮説を確かめようとする科学の方法が発達していく時代のことになる。この分かれ道の物語は、また別の記事でじっくり描くことにしたい。

この記事を書いている立場から、一つ付け加えておきたいことがある。おおづかみに言えば、西洋医学は、血液の数値や画像といった検査データをもとに、基準値からのずれを見つけ出そうとする。一方の東洋医学は、季節の巡りや体の中の気血のバランスの崩れという視点から、体全体を見ようとする。もちろん、実際にはどちらもそう単純に割り切れるものではないが、大まかにはそんなふうに見える面がある。どちらが正しくてどちらが間違っている、という話ではなく、そもそも見ている方向が違う、というのが率直な実感だ。歴史の流れとしては、こうした古くからの体の見方がまずあり、その後に、近代以降の医学が別の方法で大きく発展してきた。だからこそ、両者を優劣で語るよりも、それぞれの時代の人々が体というものにどう向き合ってきたのかを知ることのほうに、私は興味を惹かれる。

なお、東洋医学でいう「気」については、現代の科学の方法でその実体を直接とらえることはまだできていない。これは「気が科学的に存在すると証明されている」という話ではなく、昔の人々が体をそのように捉え、説明しようとしてきた、一つの世界の見方として理解しておきたい。

この章でわかったこと
  1. 「東洋医学」という呼び名自体は、近代日本が西洋医学と区別するために作った、比較的新しい言葉である。
  2. 陰陽五行説を土台にした中国医学と、四体液説を土台にした西洋医学の源流は、「体をバランスとして見る」という出発点でよく似ていた。
  3. 分かれ道は近代の解剖学・実験科学の登場にあり、優劣でなく”見ている方向の違い”として捉えることができる——次章では、この理論がどう日本へ渡り、今も生きているかを見ていく。

第6章|2000年前の理論は、どう日本に渡り、今も生きているか

まず一言でいうと、漢の時代に育った陰陽五行説にもとづく体の見方は、やがて中国から日本へと海を渡り、律令(りつりょう)国家が整えられていく奈良時代に、国の制度の一部として正式に取り入れられることになる。

この糸、次の物語で回収する

奈良時代、日本は唐(とう)の国のさまざまな制度を手本にして、国のかたちを整えていった。その中には医学に関する制度(医疾令(いしつりょう))も含まれていた。さらに時代が下った平安時代には、日本人の医師・丹波康頼(たんばのやすより)が、中国の医学書の集大成として『医心方(いしんぽう)』(984年)という書物を編んでいる。この中には、黄帝内経の流れをくむ理論も数多く受け継がれている。この続き——陰陽五行説を土台にした体の見方が、どのようにして日本の医学の一部になっていったのか——は、この歴史の物語のいつかの回で、あらためて描くことにしたい。

2000年前に生まれたこの理論の枠組みは、今も形を変えながら、私たちの暮らしの中に残り続けている。暦(こよみ)の中の季節の呼び名、色や方角にまつわる感覚、そして今も鍼灸師の国家試験の教科書に載り続けているという事実——それらは、この理論が”効く”かどうかという話とは別に、一つの文化の文法として、確かに生き続けていることを教えてくれる。

この記事を書いている立場から、最後にもう一つだけ思うところを記しておきたい。「自然界の一部として体を捉える」という古代からの見方は、今もすっかり消えてしまったわけではない。近代以降の医学は、体をより細かく分けて調べる方向へと大きく発展してきたが、それは古い見方を否定したというより、別の問いに答えようとしてきた歩みだと言える。そして、体を自然の巡りの中で眺めるという古い感覚もまた、今もどこかに残り続けている。どちらか一方だけが正しいと決めつけるのではなく、人類がそれぞれの時代に、体というものとどう向き合ってきたのかを知る——それが、2000年前の理論が今の私たちに手渡してくれる、一つの視点なのだと思う。

この章でわかったこと
  1. 陰陽五行説を土台にした体の見方は、奈良時代の医疾令を通じて日本の制度に取り入れられ、平安時代の『医心方』(984年)にも受け継がれていった。
  2. この理論は今も、暦や色・方角の感覚、そして鍼灸師の国家試験の教科書という形で、文化の文法として生き続けている。
  3. 「自然の一部として体を見る」視点は失われたのではなく、近代医学が別の問いに答える形で発展してきた——人類が時代ごとに体とどう向き合ってきたかを知る姿勢こそ、2000年前の理論が今に手渡すものだ。

まとめ

陰陽五行説は、もともと戦国時代の思想家・鄒衍が説いた、王朝の興亡を説明するための政治の理論だった。木火土金水という循環の物差しが、季節や方角にまで当てはまる万能さを持っていたからこそ、やがて人の体という”小宇宙”にも取り込まれ、肝・心・脾・肺・腎という五臓の巡りとして体を説明する黄帝内経の身体観が育っていった。同じ頃、海の向こうのローマ帝国ではガレノスが四体液説を体系化し、日本列島ではまだ小さなクニグニが大陸の大国に使いを送っていた。交流のなかった三つの場所が、それぞれ独立に「なぜ人は病むのか」という同じ問いと向き合っていた——この時代の広がりを知ることこそ、この記事いちばんの”へぇ”だったのではないかと思う。

現代の窓

陰陽五行説にもとづく体の見方は、遠い昔に終わった物語ではない。暦の季節の呼び名、色や方角にまつわる感覚、そして鍼灸師の国家試験の教科書の中に、この理論は今も形を変えながら息づいている。それは「効く」かどうかという話ではなく、2000年という長い時間を生き延びた、一つの”文化の文法”としての生き残り方だ。西洋医学が数値や検査データから体を見つめ、東洋医学が季節や巡りから体を見つめる——大まかに言えば見ている方向が違うこの二つは、どちらも人類が長い時間をかけて体と向き合ってきた歴史の一部として、今に受け継がれている。政治の理論として生まれたこの物差しが、2000年かけて人の体の理論へと姿を変え、今も現在まで生き続けている——その息の長さそのものが、歴史を知ることのおもしろさを教えてくれる。

この記事の参考情報源

  • 国立国会図書館(ndl.go.jp)
  • J-STAGE(jstage.jst.go.jp)/日本東洋医学会関連資料
  • Encyclopædia Britannica(britannica.com)
  • 大学・学会の公開資料(中国思想史・医学史関連)

※Wikipediaは情報の入口としてのみ参照し、単独の引用元にはしていない。

誠実な注記:黄帝内経の成立年代は「前漢末〜後漢初」という幅を持った推定であり、研究者によって見解が分かれている。陰陽五行説の起源についても、鄒衍による体系化を中心としつつ、それ以前の占術・自然観にまでさかのぼる複数の系譜があることを本文中で明記した。ガレノスの生没年についても史料によって没年に幅があるため、「129年頃〜199年頃(216年頃とする説もある)」と幅を持たせて記載している。

次回への糸

木火土金水の物差しが、王朝の理論から人の体の理論へと姿を変えていった物語——その続きは、この理論が日本に渡り、平安時代の医学書『医心方』に結実していく回で、あらためて描くことにしたい。また、「同じ痛みという問いに、鎖国下の日本が世界より42年早くたどり着いた」物語(華岡青洲を扱った回)や、この医史シリーズ全体の地図となる入口の記事も、あわせて読んでもらえると、一つひとつの物語がさらに立体的につながって見えてくるはずだ。

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この記事を書いた人

医療系の国家資格を4つ(柔道整復師・あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)と専門職学位 Doctor of Chiropractic をもち、JCR(日本カイロプラクティック登録機構)の登録カイロプラクターでもある医療従事者・山﨑 駿。オステオパシー(D.O.)を専攻中。十数年にわたり臨床で人の体と向き合い、体・進化・いのちの視点から、人類と地球の歴史をひと続きの物語として読み解く。


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